阿部 たつを (あべ たつを) 1892年~1984年
函館の良識の代表とされ、医学を通して市民の健康管理に尽くした文化人。
阿部たつを(本名竜夫)は、明治25年1月東京に生まれた。旧制一高を経て大正8年、東京帝国大学医学部を卒業した小児料の医者であった。2年間の欧州での研究を終え、大正11年に医師として函館に赴任した。
市立函館病院に新しく小児科ができた時で、小児科専門医の常駐は道内でも初めてで、その草分けであった。市立函館病院小児科長として28年余り勤務したのち、昭和25年に現社会福祉法人函館厚生院の経営する函館中央病院小児科長に転じた。
勇退後は、同院の顧問を勤める傍ら、大谷女子短大教授を兼任した。“本当の意味での小児科を持ってきて、広めた人”など当時、医者としての阿部氏に対する賛辞は非常に多かったが当の本人は“私は当たり前の医者”といともあっさりと語っていたという。
小児科の名医であるばかりでなく、歌人としても知られ、中学生のころから作りはじめた短歌は、一時、若山牧水に師事したほどであった。昭和9年以来、実に397冊に及ぶ短歌雑誌「無風帯」を刊行したのをはじめ、歌集「渓流」「新雪」「茜雲」、評論「函館歌壇史」など多数の著書がある。
函館歌壇の先達として、その業績は極めて大きなものがあり、“庶民のうた”をめざした阿部氏の影響を受けた人は数知れない。また「啄木を語る会」の当初からのメンバーでもあり、宮崎郁雨と手をたずさえての石川啄木研究などはきわだっていたところだろう。
医者として、歌人としての顔の他にも登山家“阿部”と活動は多岐にわたっていた。大正末から昭和初めにかけてアタックした山は数知れず、中でも横津岳、駒ヶ岳など登山道もない道南の山々は阿部氏が登って新聞などに紹介した。
昭和25年に市の第1回文化賞を、昭和33年には、北海道文化奨励賞を受賞している。
昭和46年秋、半世紀にわたって住み慣れた函館に別れを告げ、名古屋市に在住するご子息鏡太郎氏のもとに転居し、毎年誕生日には、自祝豆本歌集を作成するなど、「お医者商売さらりとやめて、身儘気儘な佗び住居」(著者、昭和51年の賀状)といった悠々自適の生活を送っていたが、昭和59年10月23日、92歳の天寿を全うされ鬼籍に入った。
“人恋ひし遠山の雪ほのぼのと春の夕日に茜さす頃”(函館護国神社境内の阿部たつを歌碑より)。