明石信道 (あかし しんどう) 1901年~1986年
函館の老舗デパートの一つ棒二森屋を設計した、函館を代表する名建築家・明石信道。
明治34年7月、函館の名家堀川家に五男として青柳町で生まれる。願乗寺川を掘削し函館発展に尽力した真宗本願寺派の僧侶・堀川乗経の孫にあたる。旧姓堀川。
大正8年、新川小学校を経て道立函館中学校(現・道立函館中部高等学校)卒業後上京。
23歳の時、明石家の養子となり、母方の名跡を継ぎ明石姓となる。明石家も旧家で、松前藩の重臣であった。
昭和3年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業。信道が建築を専攻したのは、英国人の地震学者ジョン・ミルンと結婚した伯母トネのアドバイスによるものだったらしい。
建築家としてのデビューは早く、卒業前後に担当した東京新宿の映画館「武蔵野館」が初仕事だった。武蔵野館は国内屈指の大規模かつモダンな劇場で、当時の建築雑誌に大々的に紹介された。卒業後は、設計事務所を自営するが、世界規模の大恐慌の影響もあってか、建築の世界では鳴かず飛ばずだった。
昭和6年夏、函館帰郷の際に頼ったのが、棒二荻野の社長・荻野清六だった。仕事がきたのは、この出会いから3年後、棒二森屋百貨店の設計だった。
棒二森屋百貨店は、明治2年、内澗町(現・末広町)に創業した洋品店「金森森屋」と明治23年創業の呉服店「棒二荻野商店」が昭和11年に合併して、現在地の若松町に進出し、翌年に竣工した。
棒二森屋は、昭和29年、30年、31年、36年、41年、49年の6度に渡り、店舗の規模を拡張するが、その設計も全て明石の手によるものだった。さらに建物北側の別館の設計も担当し、57年9月に竣工させた。第一期工事の着工から46年間、棒二森屋の建築に携わってきたことになる。これは国内では他にあまり類を見ない。
明石のデザインには、アールデコの影響が見られ、そのモダンなデザインは、1階外壁の「BONIMORIYA」のレタリングにも現れているが、初代社長の荻野清六によりモダン・スタイルは好ましくないとの注文がついたため、抑さえられたデザインとなった。
昭和15年、早稲田大学専任教職となり、47年、定年退職、名誉教授となる。この間、「旧帝国ホテルの実証的研究」で建築学会賞を受賞している。
昭和61年、函館の老舗デパート、棒二森屋の設計に半世紀をかけて増改築を続けた建築家・明石信道はその生涯を閉じた。
明石信道が設計した代表的なものには、東京の新宿区役所、山梨県庁新館、山梨公会堂、新宿武蔵野館、千代田女子学園などがあるが、棒二森屋の仕事が一番楽しい思い出だったと語っている。