池田種之助 (いけだ たねのすけ) 1871年~1944年
同郷の写真師・田本研造に憧れ、待望の「池田写真館」を開業。多端な写真人生をおくった池田種之助。
明治4年3月10日、農業池田新左衛門の長男として紀州南牟婁郡長原村(現・三重県熊野市)に生まれる。父の仕事を助け農業に従事する。
後に郵便局事務員として勤務するが、同郷の出身で親戚にあたる写真師・田本研造が函館で活躍しているのを噂に聞きつけ、田本研造をたよって故郷をあとにする。
田本研造は北海道の写真界に多大なる足跡を残し、明治40年10月他界。田本写真館は従弟の田本繁が跡を継ぎ池田写真館とは良きライバルとして共々繁盛することとなる。
種之助の出郷は一大決心のことで、先祖代々の山や田を分譲し全財産を処分して父新左衛門、母多津も同道、半月遅れて従弟の池田門治も後を追い、一族あげての新しい船出となった。
32年1月23日、種之助28歳のとき、函館区元町60番地へ移り住み、田本研造の門人となる。
明治33~34年頃、田本は種之助を青森の中西應策の許にやりコロタイプ(フランスで生まれた印刷技術)や写真銅板を習わせる。
種之助は永く田本写真館に勤務していたが、明治41年独立して恵比須町(現・宝来町)に池田写真館を開業する。この時八雲の網元山崎から資金援助を受ける。
大正6年、函館で唯一写真銅板を新設し、独占事業にして隆盛の一途を辿り、官公庁、大企業、学校等、お得意さんが多く、また、函館毎日新聞社の専属として、写真製版も行った。
種之助はとても温厚な人で、人望もあり、町会長や永平寺北海道総本山の檀家総代なども務め、函館区立図書館長の岡田健蔵とも大変親しい間柄にあった。
大正8年、皇太子が北海道行啓の際、献上写真として、函館山からみた市街の全景を撮ることになり、種之助が指名を受ける。当時、函館山は要塞地帯で一般人の近づくことの出来ないところであった。
従弟の門治は種之助の許にいたが、大正9年独立して北門写真館を開業、昭和5年には池田写真館をも引き継いだ。
種之助は恩人山崎の漁場仕込みの際の保証人となり、山崎が事業に失敗し倒産。更に昭和9年の大火で写真館が焼失。その余波で写真館を閉業し、やがて知人をたよって、一家は大阪の岸和田へ渡った。
昭和19年8月5日、同郷の田本研造に憧れ、写真師となった池田種之助は73年の多端な生涯を閉じた。