井上 光晴 (いのうえ みつはる) 1926~1992
函館山の麓に仕事場を構え、地方文化の本質的な表現を書き手と読者を通じてあらわにしようとした、作家・井上光晴
大正15年5月15日、「中国大陸の満州旅順で生まれた」と本人が言い、そう書いているが、最近の調査によると、光晴は父雪雄・母たか子の長男として佐世保で生まれている。
4歳で母と生き別れ、腕の立つ陶工であった父は中国を放浪後、消息を絶つ。祖母、妹とともに父方の親類を頼って伊万里皿山に身を寄せる。12歳から崎戸炭坑で働き、貧しさのため高等小学校を一年で中退し、中学校へも行けなかったが、16歳の時に専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して電波科学専門学校を卒業する。
昭和20年10月、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加、翌年1月、日本共産党員となる。
昭和25年、党内の反ヒューマニズム的思想を批判した「書かれざる一章」を発表して衝撃的な作家デビューをする。この作品は共産党の分裂問題もからんで反党的作品という批判を浴び、党から除名を言い渡されるが、これを拒否する。
戦争、革命、差別、人種問題、被爆、天皇制などなど、おおよそ光晴にとって対象にならないものはこの世に存在しないと言われている。腐敗を追及し、世界のあらゆる不条理を告発し、人類の差別に抵抗し闘う作家としてエネルギッシュに活動を続け、「ガダルカナル戦詩集」「虚構のクレーン」「死者の時」「心優しい叛逆者たち」などを次々に発表する。
昭和38年、原爆被爆者に焦点をあてた「地の群れ」を発表。残酷なイメージをふんだんに盛り込んだこの作品は、芥川賞の最有力候補だったが、作者がすでに実力のある既成作家だという理由で授賞されなかった。
昭和58年8月、タウン誌「街」を発行していた木下順一が中心となって企画した「函館文学学校10周年記念講演会」が縁となって、翌年光晴が全国に展開していた文学伝習所を函館に開設。ここから函館との関わりが始まる。同じ港町でも、佐世保とは趣が違う函館が気に入っていた。
昭和62年、函館山ロープウェイのすぐ近くにマンションを購入。そこを終のすみかにするとまでいうようになっていた。
昭和59年から平成元年まで毎年函館で開設された伝習所から「函館文学」が刊行され、さらに64年、函館から中央に殴り込みをかける文芸誌として「兄弟」が創刊される。8号まで出す計画でいたが、3号は出なかった。
平成4年5月30日、人間を愛し、酒を愛した作家、井上光晴は、大腸癌により死去した。享年66歳だった。