伊藤 貫一 (いとう つらかず) 1911年~1996年
篤い信仰心と旺盛な研究心をもって人と学問を愛し、教育者として、更に学校管理責任者として宅卓越した手腕を発揮した北海道教育大学名誉教授伊藤貫一。
明治44年1月1日、福井県で伊藤重右エ門、さつの末子として生まれ、幼児期に札幌へ移り、現在の北広島市西の里の農家で育つ。兄弟も多く譲られる土地もないことから、賢明な母親の意向もあり、教育者への道をひたすら歩む。
大正14年、札幌師範学校本科一部に入学、卒業後は一時函館市内の小学校教師になる。
昭和10年、東北帝国大学に入学し、哲学・教育学を学ぶ。在学中、哲学科の石原謙教授の薫陶を受け、厚く尊敬・感謝の念を抱き続けた。
卒業後の昭和13年9月より昭和14年12月まで、ドイツベルリン大学に留学し、哲学・教育学を深く探求する。しかし、14年9月ドイツのポーランド侵攻がおこり、ドイツ国内及びヨーロッパ全域の世情不安により、研究続行への切なる想いを断念して、妻美保と共に帰国する。
帰国後、15年2月から函館師範学校教師として哲学を担当し、大学(北海道学芸大学、現北海道教育大学)発足当時から哲学教室を主宰、昭和49年4月の定年退職まで34年間、一途に教育・研究に邁進する。同49年6月北海道教育大学名誉教授となる。
その間、「プラトンにおける魂」「ペスタロッチにおける個人的存在と集団的存在」「哲学と政治」「知識について」など数多くの論文を発表し、退官記念講演では、自らが設立・発展させた”函館人文学会”で、終生の主題とした「西欧思想の理解について」を講演し、上梓した。
また、大学運営の中枢にあって、北海道教育大学の札幌本校及び各分校全般にまたがる運営に深く参画した。特にいわゆる「60年安保」ののちに北海道教育大学函館分校主事に選任され、混乱の中で教育研究の正常化のために尽力し、その後、激動する「大学紛争」の最中の5年間、北海道教育大学の学生部長として重責を担い、しばしば夜を徹しての団体交渉に応ずるなど多事を極めた。
教え子によれば、授業は厳しかったが学生を非常に愛し、数多くの子弟の仲人をし、折りに触れて自宅に招いて、夫人の料理でもてなし歓談するのを楽しみにしていた。
又、結構お洒落で、洋服・靴などは必ず自分で吟味し、注文するのを常としていた。
一方、キリスト者として教会の運営にも積極的に関わり、函館相生教会長老として、約40年間献身的に奉仕する。
退官後の昭和51年から59年までの8年間、遺愛学院の学院長としてキリスト教教育に尽力し、さらに学院100周年記念事業のためにも絶大なる力を注いだ。
昭和58年、勲3等旭日中綬賞を授与され、翌59年、函館市文化賞を受賞した。
美保夫人に先立たれた後、しばらく一人暮しの生活をしていたが、平成2年、土浦市の長女貝沼紀夫・耀子宅に同居する。
毎週教会に通い、聖書を読み、散歩を楽しむ穏やかな余生であったが、平成8年6月11目、急性腎不全のため永眠する。享年85歳であった。