函館市文化・スポーツ振興財団

泉泰三 (いずみ たいぞう)  1882年~1934年

議会担当の新聞記者から合名会社を起こし、函館市の資産家として知られる一方、市会議員として市政に奔走した温厚なる紳士・泉泰三

泉泰三

明治15年6月4日、泉嘉四郎の三男として函館に生まれる。祖父藤兵衛は性剛毅闊達にして、商業、漁業、鉱山業、銀行業及び製薬業を営む。後に農業を志し、亀田郡大野村(現・北斗市)に水田を多数拓く。また、製薬にも力を入れ、明治初年沃度(ヨードカリウム、ヨードチンキ等)が人体に有効なのを知り、嘉四郎に命じて東京でその製法を学ばせる。

長兄孝三は暁圃と号し函館区時代の少壮議員であり、また函館図書館が私立時代、最初の館長でもあったが、惜しくも大正4年6月15日、41歳で他界した。

明治35年、泰三は函館中学校(現・函館中部高等学校)を卒業し、更に慶応義塾大学法学部に入学。明治39年卒業後、東京に於いて日本新聞社に入社する(淡如と号して竹越輿三郎、井上剣花坊等と机を並べ、後に青森市選出の代議士となる工藤鐵男とは共に議会受け持ちの記者として活躍する。

この間約5年、時あたかも「朝鮮開拓」の機運が熟し、政府においても盛んに奨励したので泰三も又、朝鮮産業鉄道株式会社の創立委員となり彼の地に赴き新領土開拓のために努めるが、厳父の訃報に接し幾ばくもなく帰郷する。

函館に戻った泰三は、泉合名合資会社を組織し代表となり、大野村の農場を経営。かたわら函館信用組合の監事に挙げられ財界に重きをおき、その他小作争議調停委員、都市計画地方委員、函館競馬倶楽部監事等の公職に就く。ひと度、函館市の重大問題となった水電争議が起こるや、公利公益に立脚し敢然として起ち、私財を投じて期成同盟を組織し、自ら陣頭に在って指揮をとった。

大正11年10月、市会議員の改選に際し公正会から推薦されて再選する。市会にあっても温厚なる紳士の典型と仰がれる。趣味は乗馬、文学、建築、音楽等、風格の上から見ても紳士の条件に適う人物で、殊に泰三の邸宅が当時としては函館市中に二つとない清洒で落ち着いた建物であることにもその一端が窺えた。

作家有島武郎との不在地主小作料等の相談を受けたり、昭和6年頃には歌人・与謝野寛(号は鉄幹)・晶子夫妻を湯の川の泉山荘に招いて園遊会を催し、その折に特定版「与謝野寛短歌全集」を贈られたりと、文化人との交流も深かった。

昭和7年にはオリンピック大会視察にロサンゼルスを訪れ、馬術大障害で金メダルを獲得した″バロン西″こと西竹一と出会い、親交を深めている。

昭和9年3月21日、希有(みぞう)の大火に遭遇し新川橋畔にて無念にも53歳の生涯を閉じる。
市民の悲嘆禁じ得ない処であり、平生正義の観念に強く、図書館に対する理解もあり、毎年予算市会にはよき存在として党争の緩和剤ともなった。

没後、有志により大火記念の泉文庫を函館図書館に附設し、主として火災の図書、文献その他を蒐集することとした。

函館ゆかりの人物伝