大鳥圭介 (おおとり けいすけ) 1832年~1911年
蝦夷地政権では陸軍奉行となるが、五稜郭開城後投獄となり、特赦により出獄。のちに明治初期の産業近代化の指導者として活躍した大鳥圭介。
天保3年2月28日、播磨国赤穂郡赤松村(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・大農直輔の長男として生まれる。幼名・慶太郎。
弘化2年、閑谷(しずだに)学校で、5年間儒学、漢学、東洋医学を学ぶ。
嘉永2年に帰郷し、蘭方医、中島意庵の薬箱持ち(助手)となる。この頃名を圭介と改める。5年、蘭学修行のため大坂(現・大阪)に上り、緒方浜庵の適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ。安政元年、適塾時代の仲間と江戸に出る。坪井塾で塾頭となり、この間西洋式兵学や写真術を学ぶ。同時に勝海舟の知遇を得る。
安政7年、「砲科新編」翻訳を出版。大鳥活字と呼ばれた日本で初の合金製金属活版を作る。元治2年、陸軍所に出仕した後は富士見御宝蔵番格として正式に幕臣に取り立てられる。
慶応4年、鳥羽・伏見の戦い後、江戸開城に反対し伝習隊(※伝習隊=徳川幕府が作った近代軍隊。)を率いて江戸を脱走。土方歳三率いる新撰組と合流し、北開東から会津を転戦する。
明治元年、仙台にて榎本武揚らの海軍と合流。開陽(旗艦)に乗り込み、森町・鷲ノ木に上陸する。一行は破竹の勢いで進み、大鳥圭介も大野・七重(現・七飯)にて戦闘を繰り広げ、新政府軍を壊滅させていく。彼らははとんど無血で五稜郭に入り、その後も松前城の攻略などを成功させる。そして、総裁に榎本武揚が選ばれ、大鳥圭介は陸軍奉行となる。
箱館戦争では遅滞戦術を駆使して粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、明治2年5月18日五稜郭で降伏。大島圭介は囚われの身となり、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄される。
明治5年1月8臼、特赦により出獄。新政府に勤め、左院少議官、北海道開拓使五等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を歴訪する。7年、帰国後は、北海道開拓使に戻り、後に陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕となる。
明治10年、工部大学校が発足され、校長に任命される。18年元老院議官。19年学習院院長兼華族女学校校長。22年駐清国特命全権公使となり26年には朝鮮公使を兼任し、翌年6月には朝鮮へ赴任する。27年公使を解任され、帰国後の枢密顧問官に転じ、33年多年の功により男爵を授けられる。
明治44年6月16日、食道癌のため死去。享年78歳だった。
函館山の山腹に旧幕府軍陣没者供養の慰霊碑「碧血碑(へっけつひ)」があるが、その三字の揮毫は大鳥圭介だといわれている。