ウォルター・アウグスタス・デ・ハヴィランド 1872年~1968年
日本サッカーの黎明期に函館の青少年にフットボールを指導した英国人、W・ハヴィランド
1872年(明治5年)8月31日、ロンドンの南東にあるケント州のレウィッシュハムにチャールズ・リチャード・デ・ハヴィランドの10人の子どもの末っ子として生まれ、チャネル諸島のガーンジーで育つ。
1893年(明治26年)、ケンブリッジ大学を卒業し、船便にて兄のいる日本に向かい、横浜に上陸後函館に来る。日本聖公会函館ヨハネ教会の主教ウォルター・アンドリュウス師の元に寄留(※)し子弟に英語の個人教授をする。ハヴィランドはスポーツ万能で、子弟らに谷地頭のグラウンドや函館公園の広場でクリケットやフットボールを指導する。
1890年(明治23年)、函館商業学校運動会において、競技種目の一つとして、フートボールが行われている。蹴球部が創立されたのが、明治32年の事。当時のフットボールは、ラグビーとサッカーのルールが渾然一体となったもので、FA式フットボールとは一線を画すものだった。函館商業学校のサッカーはおそらく北海道でも草分け的な存在であり、最初はフートボールと称し、蹴り上げて高さを競うなど、ア式フットボール時代には選手もワラジ履きという出で立ちでプレーしたという。
1896年(明治29年)ハヴィランドは、聖公会系の神戸乾行義塾へ転任となる。1898年、金沢第四高等学校教員に就任。後、1904年(明治37年)、東京高等師範学校教員に就任。生徒にFA式フットボールを指導し、金沢第四高校の卒業生や横浜の外人チームと試合を行っている。これが日本におけるFA式フットボールの起源とされている。
日本体育協会発行「スポーツ八十年史」に「わが国にフットボールを伝えたのは、東京高等師範学校の講師デ・ハヴィランド氏で、明治38年のころであったが…」とあるので、これより12年も前に函館で同一人物によって青少年にFA式フットボールの指導がされていたということは、特筆すべきことである。
1914年(大正3年)11月30日、リリアンと結婚。長女オリヴィア、次女ジョーンと2人の女の子をもうけるが、19年離婚。2人の娘は、アメリカで女優として活躍し、ジョーンは、ヒッチコック監督の「断崖」でアカデミー主演女優賞を受賞。オリヴィアは、ウィリアム・ワイラー監督の「女相続人」でアカデミー主演女優賞を受賞する。
1968年(昭和43年)、カナダ、バンクーバーの近郊で死去。享年96歳だった。
※寄留(きりゅう)は、日本の旧法令で、90日以上本籍外において一定の場所に住所または居所を有すること。昭和27年の住民登録法の施行とともに廃止となった。