神永 貞助 (かみなが ていすけ) 1884年~1942年
ドイツの家具雑誌やアメリカの百貨店のカタログを参考に函館近代家具の創造に尽力した、函館西洋家具製造の元祖。
明治17年3月27日函館にて生まれる。旧姓村井貞助。渡辺熊四郎が困窮家庭の子弟のために建てた鶴岡小学校で3年間だけ学ぶ。後に、叔母の神永宇三郎家の養子となる。
函館港出入り外国船の食料品供給の仕事をしていたが、貞助15歳の頃感ずるところがあり建具屋に弟子入りする。その後、
ここで弟子として修行した仲間に久保清五郎をはじめとしてその後の函館家具業界で活躍した森口万次郎・斉藤貞吉・鵜浦鵜之助・山本亥之吉などが居た。特に神永・久保・森口は明治後期から大正・昭和を通して函館洋家具の主導者的な立場であった。
35年18歳の時、大町33番地で独立、
この時期の洋家具商の実態についての当時の記事がある。「函館日日新聞・工場めぐり-神永西洋家具店」“丸井の横を相生町の方へ登って行く右側に種々の椅子やテーブルを並べたハイカラな店が神永西洋家具店である。
主人は他の同業者と違い自分で製作も出来るため工場に降りて七人の職工と四人の弟子を監督しながら製作に従事している。主人がいうには、“函館でよいものが出来ないと言われているのが悔しいが、それも無理ないことで、みんなは生の材料を使うため狂いがでてしまうのである。
このため神永では川流しの角材を買い込んで少なくても三月は陰干しにしたものを使っている”。又「函館毎日新聞・函館の建築と家具装飾に付いて・寄稿/神永貞助」には、従来は家具業者は造作に対する知識が欠如し、建築業者は家具製作の要点に対する知識が欠如しているため、ばらばらに行われていたが、建築と室内の造作家具とは一体のものであるから、これからは双方で協力して行うべきこと、また洋家具が一般に注目されるようになったことを述べている。
大正13年、函館家具業組合が結成され、組合長となり、大正後期には商業会議所議員としても家具業界でただ1人の議員として活躍した。
昭和9年の大火で東雲町6番地に移転、木造モルタル塗リ2階建てで、1階は全面ガラス張りのショーウインドをもつセセッション風デサインのモダンな建物であった。
新しい文化である西洋家具に挑戦し、函館の近代化の一翼を担った神永貞助は昭和17年10月24日、胃潰瘍にて永眠する。享年59歳であった。
その後も店は続けていたが、昭和20年8月15日敗戦の日に強制疎開によって店舗・工場・住宅を撤去させられ、これを機に廃業した。