函館市文化・スポーツ振興財団

片平 庸人 (かたひら つねと)  1902年~1954年

文人・相馬御風(ぎょふう)に「越後のアンデルセン」と絶賛された、片平庸人。

片平 庸人

明治35年7月21日、仙台に生まれる。父は裁判所官吏。少年の頃より野口雨情、西条八十に私淑し、童謡、童話の創作活動をはじめる。

仙台の詩人石川善助や天江富弥、鈴木碧の仲間として、おりから盛んになった童謡、童話の創作運動に加わって活動し、少年時代からその才能を発揮する。

大正11年、新潟県青海村(現・糸魚川市)の電気化学青海工場に職を得る。庸人は勤務の余暇を社宅の広場で、子ども達に囲まれながら熱心に重話を語り、童謡を教えていた。テレビはむろんのことラジオもない時代であったから、幼い子ども達は瞳を輝かせて聴き入り、先生、先生と慕っていた。

庸人の行くところには子ども達が群れをなした。庸人は説教者でも指導者でもなく、あくまでも子どもの友達として童話、童謡を通じて子ども達に美しい夢を与える詩人であった。

2年ほどたってから、この運動を「コドモ会」として組織し、庸人が主宰した。美しい影絵を使って、語り歌う庸人の童話と童謡の素晴らしさは次第に広がってゆく。そして、いつも会場は満員でその半分は大人たちであった。

青海の町だけではなく、隣の糸魚川やその附近にまでも招かれ、文名高く偉大な存在であった相馬御風がその活動に注目して、庸人を「越後のアンデルセン」だと絶賛した。

昭和になって同じ社宅に住む女性に恋するが失恋。ここから生活が狂いはじめ、酒に恥溺するようになって昭和3年の秋に会社を辞める。歌友・青木重孝の世話で、近くの根知村(現・糸魚川市)の分教場の教師になるが、山間僻地の淋しさに耐え切れず半年の辛抱ができなかった。さらに歌友・川原広一の紹介で高田市の紙箱製造店へ見習いとなって住み込む。

昭和5年2月、函館の姉を頼って来函する。函館を中心に北海道での活動を始め、次第に仲間が増え、結婚して5人の子の父となって函館に根を下ろす。そして函館新聞(現・北海道新聞函館支社)の記者となる。

庸人の作品は初め八十、白秋に学んだが、のちにはこれを超えて、格調高い独自のリズムと題材をもって一家風を成した。

高橋掬太郎も函館時代の記者仲間の詩友で、「酒は涙かため息か」のモデルは、庸人だといわれている。

昭和29年12月26日、雪の降る夜、大森浜で不慮の事故により死去、享年52歳だった。

昭和46年9月18日、詩友・真崎宗次、阿部たつを、天江富弥、鈴木碧らにより日乃出町啄木小公園内に片平庸人詩碑が建立された。

函館ゆかりの人物伝