片上 楽天 (かたかみ らくてん) 1858~1926
五稜郭の歴史性に注目した最初の人物、片上楽天
安政5年、伊予(愛媛県)松山藩に生まれる。幼名は良之助、号を楽天と称した。
松山藩は、15万石で最後の藩主は久松勝成で、戊辰戦争が始まった頃は江戸幕府を擁護する佐幕派であったが、形勢を見て新政府軍の味方に付いた。
楽天は松山藩の洋式軍隊編成に際してラッパを鳴らす役目となり、塵応2年の第2次長州征討に従軍するも幕府軍は大敗となった。
慶略4年(明治元年)、遠縁にあたる儒学者の小父に従って上京する。折しも、榎本武揚の旧幕府艦隊の江戸湾脱走計画を聞いて艦隊に加わり津軽海峡を渡って、五稜郭の土を踏む。しかし、品川出港時の混乱で、同行するはずの小父とははぐれてしまう。当時、楽天は満年齢11歳の少年であった。
明治2年5月11日、箱館戦争の大勢は新政府軍による箱館山奇襲作戦の成功により、終結を迎える。翌12日、政府軍旗艦「甲鉄」から打ち出す砲弾は五稜郭庁舎(箱館奉行所)に的中し、決別の宴に臨んでいた衝鋒隊の古屋隊長ら10数名が死傷。楽天は、この時の死者の姓名および埋葬地を調査し、弔霊祭を挙行した。
五稜郭は、古戦場と言いながらも訪れる人も無く、草ボウボウの跡地を見て、史料館建設を思いつく。
大正3年から7年まで土饅頭(どまんじゅう)(※土饅頭=土を饅頭のように小高く丸く盛り上げた墓)下の戦死者たちの姓名の調査研究に専念する。明治32年の史談会記録には「伊庭八郎君の墓は、函館五稜郭土方歳三氏の傍に在り」と記録されている。
楽天は、五稜郭が箱館戦争の旧跡として世に知られた名所にもかかわらず、古戦場の由来等の説明書が乏しいため折角訪れた客が「ナーンダ只の壕と土手だけか」と失望する人が多くいることを憂い、併せて本道唯一の名所を広く紹介するために、まず「五稜郭小史」を発行し、続いて大正6年に五稜郭公園の初代看守(管理人)の北島勇之進らと脇力して五稜郭公園内の兵糧庫を利用して「懐旧館」という展示施設を開館させる。
同時に、「箱館戦争実況人形陳列場」を設ける。内容は、一景「開陽丸激論の場」から七景の「後の榎本将軍の場」で締めくくられている。
大正15年6月8日、当時の函館新聞は五稜郭観光の先駆者であり功労者である片上楽天が、68歳で突然逝去したと報じている。
※伊庭八郎=旧幕府軍遊撃隊の第二軍隊長