川田 龍吉 (かわだ りゅうきち) 1856年~1951年
函館ドック再建のために来道し、その後生涯を北海道農業の近代化のために捧げた「男爵薯」の生みの親・川田男爵。
安政3年3月14日、土佐藩士・川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)の長男として、土佐郡杓田村(ひしやくだむら・現高知市旭元町)に生まれた。維新前の川田家は、杓田村古新地(ふるしんち)で「年寄」(庄屋補佐)を勤める家柄で豊農であり、郷士という身分にあった。郷士は半農半武の生活で、幼少期より農業を学び土に親しんだ。
明治10年、岩崎弥太郎の命をうけ、英国スコットランドへ渡る。時に龍吉22歳であった。グラスゴー大学で機械工学を学び、ロブニッソ造船所で舶用機関術を修めた。又留学中しばしばスコットランドの農村を訪れ、そこでじゃがいもに出会ったらしい。「偉大な工業国は偉大な農業国」であることを知る。
17年、帰国する。7年に及ぶ留学だった。その年三菱製鉄所三等機関士として入社。日本郵船機関監督助役を経て26年頃横浜ドック会社取締役、30年社長に就任する。
21年高知小町とうたわれた楠瀬春猪と結婚。5男2女をもうけた。29年父川田小一郎男爵の急死のため男爵位襲爵。川田龍吉男爵が誕生した。41歳だった。34年横浜ドック社長時代、アメリカのロコモビル社製蒸気自動車を購入、日本人初のオーナードライバーとなった。
39年、函館ドック会社専務取締役として北海道へ渡る。日露戦争終結後の不況を乗りきる人物として、時の財界の大立者・渋沢栄一が川田男爵に目をつけたのである。函館へやってきた男爵は、ドックの仕事のかたわら、七飯村(現七飯町)に10数町歩の農地を買い農場を開設した。
ここで様々な品種の馬鈴薯を試作したが、米国「バーバンク種苗会社」より輸入した「アイリッシュ・コブラー」が早熟かつ病害虫に強い品種であることを確認、その普及を図った。これが後に「男爵」と名づけられ、北海道はもとより日本全国で責重な品種となった。男爵薯の誕生である。
44年、函館ドックを退社した男爵は、残された生涯を北海道農業近代化のためにささげることを決意する。渡島当別におよそ1,200町歩の山林農地の払い下げを受ける。そしてこの地にかねてから心に抱きつづけた理想の農場を建設した。
主として、米国より最新式の農機具を多数輸入し「恒産組」という殖産を目的とする会社組織を設立、酪農、畑作、林業などにわたり、機械化による農業を試みた。大正から昭和にかけての川田農場は、私設農事試験所であり、近代化農業の砦であった。
昭和23年、川田男爵はトラピスト修道院において洗礼を受ける。92歳であった。晩年じゃがいもの白い花が咲ききそう季節になると男爵は、村人たちのかつぐカゴに乗り白い花を眺めてニコニコとうれしそうだったという。
昭和26年2月渡島当別の自宅にて95年の生涯をとじた。