函館市文化・スポーツ振興財団

北上 聖牛 (きたがみ せいぎゅう)  1891年~1970年

函館に生まれ育ち、京都を拠点に文展、帝展で活躍した日本画家・北上聖牛。

北上 聖牛

明治24年5月11日、植木商を営む北上善五郎、リノの長男として青柳町33番地に生まれる。本名、利一郎。はじめ北山、のちに池龍、利一などと号を変える。父、善五郎は新潟県豊栄の出身で、函館に居を移してから植木商を営んだ。しかし、長男の聖牛が家業を継ぐことなく京都へ出たためか大正末期に家業をたたみ京都へ移住している。

30年、住吉尋常高等小学校に入学する。12歳の時左足を失う。聖牛の長女、北上節子氏によれば、膝のあたりからおできができ毒が体内をまわるのをふせぐため、やむなく切断したのだという。

40年、日本画家を志し、京都に出る。「親族の人々に画人四人もあり西洋画、南画、下村観山先生の弟子北上峻山氏、又古道具屋の人々ですから私も早くから絵が好きで特に花や山水が好きにおりました」とその動機について述べている。北上峻山は函館生まれで、上京して下村観山に師事し、第6回文展で褒賞を受けるなど早くから実力を示した画人で叔父にあたる。上洛した聖牛は、京都烏丸で薬屋を営む上羽氏のところで3年間ほど「着物の染色、紋、上絵」をする。その後本格的に北上峻山に師事し、約1年にわたり、日本画の絵具の扱い、古典派の美人画などを学ぶ。

大正2年、京都画壇の大御所、竹内栖鳳に入門する。入門2年目、処女作「青葉の蔭」を制作する。大正5年第10回文展で「はなれ国の初夏」が初入選、翌大正6年には、第11回文展で「睦しき日送り」が入選する。「はなれ国の初夏」は、六曲一隻屏風で画面いっぱいに網干し風景を描いている。生まれ育った住吉浜を題材にしている。鏑木清方はこの作品を「描写が正確で男性的な可なり纏った作である。一歩にして画品を欠こうとしているが印象に残る作品である。」と評している。また「睦しき日送り」は姉妹編ともいうべき作品で、同じく住吉浜を描いている。

当時、聖牛をバックアップしていたのは、函館の豪商・末富孝次郎であった。大正5年、6年と帰省しているが、それも資金面での援助を惜まなかった末富孝次郎の便宜によるものであり、函館の表具師・畑団次郎も聖牛を後援したひとりであった。

7年、京都の四季を画題にした「嵐山の春」が第1回帝展に入選。六曲一双のウラ金箔地大和絵風仕上げで、当時としては、最も高価な2,800円で売れたという。現在はモノクロ図版でしか確かめることができない。8年以降、「写実主義から大和絵。宋画風。洋風に移りつつ今日に及びました。」と聖牛が語るとおり作風は変遷をみせてゆく。

14年、京都で研究団体「冬心会」を設立。太平洋戦争後は主に個展で作品を発表した。第1回道展には特別会員として「残月」を出品。写生に基づいた花鳥画を得意とし、画風は初期のころの写実的な表現から次第に大和絵風に傾き、晩年は洋画風に移っている。

70歳前後から、高血圧と糖尿病をわずらったが、筆を休めることなく描き続け、昭和44年12月30日早朝、京都にて死去した。享年78歳であった。

函館ゆかりの人物伝