函館市文化・スポーツ振興財団

木津 幸吉 (きづ こうきち)  1830年~1895年

函館と「写真」との関わりは、我国の写真の歴史そのものであり、横浜・長崎と共に日本三大写真発祥地と呼ばれている。越後新発田に生まれ、安政の末箱館に渡り、ロシア領事より写真の術を学び、北海道最初の写真場を開いた写真師・木津幸吉

木津 幸吉

北海道最初の写真師。洋服仕立ての始祖。新潟県新発田の出身。初代ロシア領事ゴシケヴィッチの依頼で洋服をつくり、仕立屋を開業し繁盛した。写真に興味を持ち、領事に写真術を学び、元治元年頃(慶応2年とも考えられる)新地新町(現・船見町11-1)で写真場を開く。わが国写真発祥地の1つである。

天保元年1月15日、木津善八の長男として越後新発田(現・新潟県新発田市)に生まれる。安政の末年に足袋職人として箱館に渡る。

初めて草鞋(わらじ)を脱いだ家は大町のと云う旅籠屋であった。

間もなく弁天に酒屋和左衛門という古着と箱館焼(瀬戸物)とを商う家で仕立屋を始める。

そこへある日、一人のアメリカ(当時、外国人は全てアメリカと呼んでいた)が尋ねて来て、自ら持ってきた羅紗を出して洋服の仕立方を頼む。ところが幸吉はかつて洋服を仕立てたことがなかったので、アメリカの古服を借りてそれを見本に見事に仕上げる。

これが箱館最初の洋服となる。この時のアメリカとはロシア領事のゴスケウヰツチであった。それ以来在留外人の着衣は、ことごとく幸吉の元に集まるようになり、手狭手不足になったので、大きな店舗を会所町の仙台屋敷の下に開いて職人を4、5人雇いかなり繁盛する。

幸吉は久しぶりに故郷を訪ねようと箱館から便乗した船で偶然にも写真機械を見る。それを箱館から土産として無理に懇望して買って来た熊の皮と交換してもらう。写真機械を手に入れた幸吉は喜び勇んで新発田へ帰着。

そして専心その影写に腐心するがなかなか旨く撮れず、影像がぼんやりと見える頃には箱館で儲けた財布が空になっていた。やむなく再び箱館に来てみると、他人まかせの店舗はしだいに悲況に陥っていった。しかし幸吉は依然として尚怪しげな写真機をひねくってその影写に没頭する。

ある日、尋ねてきたゴスケウヰツチに影写方法を教わり、旨く撮ることが出来た。そこでその頃、新地新町と呼んでいた今の船見町90番地に写真場を開いた。これが元治元年のことだった。

箱館戦争が終わった明治2年に上京。東京に移り住んでから名前を幸吉から剛吉に変え、心機一転して浅草に本格的な写真館を開いた。

明治9年12月に出された「東京写真見立競」という相撲の番付けに似た表には、数10軒に及ぶ東京市内の写真師の名前が出ているが、元老格として下岡蓮杖、横山松三郎、皇室写真で有名な内田九一などと同格に並べられている。

この頃は下町の芸者町にスタジオを開き、手広く営業していた。木津幸吉夫妻には実子がなく、和田家三男の信吉を養子として入籍し写真師のあと継ぎとした。後年、信吉は福島市に玉盛館という写真館をつくり、人物写真では高名をかったという。

明治28年9月27日、北海道の写真界先駆者としてばかりでなく、広く活躍し、その業績を築き65歳にしてその生涯を終えた。

昭和10年7月2日、函館開港記念日に市功労者の一人として表彰された。

昭和39年9月19日、社団法人日本写真文化協会北海道連合会は、木津幸吉の開場100年を記念して豊川町の緑地帯の一隅に記念碑を建て、その業績をたたえた。

函館ゆかりの人物伝