小橋 榮太郎 (こばし えいたろう) 1865年~1932年
若くして地方の政事に奔走し自ら新聞を創刊、ジャーナリス卜と政治を人生の目的とした小橋榮太郎。
慶応元年3月箱館に生れる。父宗七は石川県の人で、安政年間に箱館に渡り、商業を営む。
榮太郎は函館商業学校に学んだ後、東京に出て近藤塾で修業をし、学業のかたわら朝野新聞の記者となり内田魯哉の指導を受け自由民権運動に加わる。
榮太郎は函館に帰ってからも政治に取り組み、明治16年先輩と共に北海自由党を組織して盛んに民論を主唱し、国会開設の期成に奔走する。
明治22年、衆向社を設立して日刊「北辰」を創刊するが長続きせず、5年後の27年1月7日、曙町に本社を置き自ら政事新聞「北のめざまし」を創刊経営する。
翌年更に紙面を拡張し30年本社を東濱町19番地に移す。31年7月再び紙面の改良を図り題号を「函館日日新聞」と改める。この新聞は45年6月に「函館新聞」と改めている。
明治33年、平出喜三郎と謀り立憲政友会函館支部を設立しその幹部となり、同志の糾合に務める。一方では新聞の経営に努力し次第に政界に頭角を表すようになる。
はじめに、函館区会議員に選ばれ、各委員を歴任し、続いて函館区選出北海道会議員に当選して道会副議長に挙げられる。北海道の重要問題討議の際は真に牢乎として気概と健実なる意志を示した。
明治41年5月、北海道の衆民に推されて函館区より衆議院議員に当選し、北海道経済案及び諸問題の提案があるごとに自ら論戦中の人となり弁論駁説大いに努めるところとなる。
また渡島開発期成同盟会唯一の目的である長万部鉄道敷設速成建議案並びに陳情請願等、北海道地方有志の力によって到る際には、政府の当事者と各政党政派有力者の間に介在して斡旋の労をとる。
明治44年、新聞社を更に地蔵町に移転し、後に他に譲る。新聞社を譲った榮太郎は、先年来大成功を見た硫黄鉱山事業に従事する。その1つとして精進川銅山を経営する。
大正政変に際し政友会を脱会して対立関係にある立憲同志会に入党する。大正3年、函館郡部選出代議士内山吉太の退任補欠選挙に同志会より立候補し、以前の仲間である政友会の園田実徳と争うことになる。
財界をバックに強大な勢力を持つ園田実徳に対抗して一歩も退かず戦ったが僅少の差で敗れ、政界及び実業の世界から忘れさられることとなる。
平素穏健であり、また体格もあり好漢であったが、その晩年は零落不遇であった。