初代 紺野治重
(こんの はるしげ)
1827年~1899年
2代目 紺野松次郎
(こんの まつじろう)
1865年~1924年
3代目 紺野孝造
(こんの こうぞう)
1892年~1985年
3代にわたり、函舘の生活と文化を撮り続けた紺野写真館の写真師。
紺野写真館は、恵比寿町(現・末広町)で三代続いた函館でも老舗の写真館だった。
初代・紺野治重は、文政10年相馬に生まれた相馬藩士であった。勘定奉行を務め、箱館近郊の開拓に伴って、箱館にやってきたと思われる。
江戸から明治にかわる直前、相馬藩は開拓事業から撤退するが、箱館戦争のころ、治重は、箱館に残っていた。相馬藩で勘定奉行の要職にもあった治重は、その能力をかわれて、明治5年北海道開拓使に採用される。
開拓使はその年、お雇外国人ステール・フリードに、札幌近郊の開拓状況の写真撮影を依頼する。この時治重は、同行して写真術を習得することを命じられる。
明治8年、治重は開拓使を退官。明治14年、写真館「素彩(そさい)堂」を開業する。
治重が撮った写真は、昭和9年の函館大火ですべて焼失した。
2代目松次郎は、初代・治重より写真術を受け継ぐが、当時の函館病院に薬剤師として勤務しており、実質は妻のチカが取り仕切っていたという。横浜で薬学を勉強した松次郎は、そのせいかそうとうハイカラだったとみえ、明治34年8月23日の北海朝日新聞掲載の「函館高襟倶楽部番付」では堂々前頭を務めている。また、雑俳(俳譜文学)家でもあり、さらに「隅京」と称して義太夫の稽古もしていたという。
松次郎は、箱館戦争時の幕府軍戦艦「回天」の残骸写真を根室で発見・複写し、記録写真の重要性を認識していた。
田本研造の葬儀の際は、函館写真界を代表して弔辞を読んだという。
3代目孝造は、光の調整などに高い技術を持ち、スタジオ写真の名人だった。2代目・松次郎は、幕府軍戦艦「回天」に写真記録の精神を見せたが、孝造も田本撮影と思われる「奉行所牢屋」の写真を複写して記録している。スタジオ写真のみならず、記録写真の重要さも認識していた。その最たるものが、函館商船学校の最後の卒業記念アルバム(昭和10年)である。廃止が決まっている商船学校を写真で記録に残すことに全身全霊を傾け、後世にその貴重な記録を残した。
昭和9年の函館大火は、恵比寿町をも飲み込んだ。孝造は、仮設写真館ですぐに営業を再開。順調に行くも束の間、今度は太平洋戦争が始まり、函館が爆撃される前に疎開することを余儀なくされ、昭和20年6月、写真館を閉めることとなる。
戦後、函館に写真館を再開することはかなわず、紺野写真館の半世紀に及ぶ歴史に幕を閉じた。
2013年6月、函館市写真歴史館と函館市地域交流まちづくりセンターで「寫眞舗素彩堂紺野写真館展」が開催された。