栗谷川 健一 (くりやがわ けんいち) 1911年~1999年
函館時代に映画看板の技術を培い、北海道のデザインの歴史と共に生きた、栗谷川健一。
明治44年2月、岩見沢にて父林忠太郎、母たまきの三男として(7番目の子ども)生まれる。生まれてから数日後、母たまきの妹きくよの嫁ぎ先、栗谷川家の長男として入籍する。
健一が絵かきになろうと思ったのは、岩見沢尋常高等小学校4年生の時だった。師範を出たばかりの安部幸平という先生に写生の面白さを教わり、夢中になった。自分でネルの布で袋を作り、その中に「画家」と書いた紙の札を入れ首に下げていた。
大正12年、再婚する養母について栗山へ。栗山の小学校の高等科を卒業後、映画看板製作専門の札幌中野看板店に徒弟として入店する。ここでの仕事が宣伝美術に係わる第一歩となった。
無給であったが、映画館に出入りするから映画はタダ、これが最高のぜいたくでもあり、映画をふんだんに観たことが後年の観光ポスターにも役立った。
昭和2年、店主の弟のいる小樽松竹座のもとに移る。
昭和6年、函館松竹座の専属となる。札幌で徒弟に入ってから7年目の独立だった。映画はサイレントからトーキーとなり、日本初のトーキー「マダムと女房」の看板を描く。函館松竹座での生活が本当の意味で健一を大人にした。1人で背負う看板かきの仕事。責任感に燃える一方、従来通りの似顔絵みたいなものでいいのかと悩む。
昭和7年上京、松竹本社の紹介で帝劇の栗田次郎を訪ねる。健一がポスターの神様と思っていた人だ。栗田の描いた原画を見、なんとのびのびと自由に描かれていてしかも素晴らしいのだろうと大きな刺激を受け、函館に戻る。しかし当時の函館ではまだこの新しさは受け入れられず、その不満がやがて本格的なデザインの勉強に駆り立てていく。
昭和9年、函館大火のため職場が焼失。失職した健一は妻と2人避難民扱いで腕に「乗車無料」のスタンプを押され札幌にたどり着く。印刷会社の画工として勤める。2年後、函館の印刷所からよい条件で誘いがあり、再び函館へ。
しかしこの印刷所はすぐやめ、独立してクリ図案社を立ち上げ、看板から屋根のペンキ塗り、ウインド装飾、大工仕事までをこなす。暮らしは最低だったという。それを救ったのが札幌鉄道局ポスター募集の1等入選だった。これが励みとなって翌年もまた1等。これがきっかけとなり札鉄の嘱託としてまたまた札幌へ戻ることになる。
北海道の魅力を、蓄積した技術で精力的に描いた作品は高く評価され、中央でも脚光を浴びる。受賞作は多くあるが、アイヌ民族の女性を描いた「HOKKAIDO」で世界観光ポスターコンクール最優秀賞を受賞、その地位を不動のものとした。
昭和57年、北海道デザイン協議会の初代会長となり、59年に北海道新聞文化賞、平成3年、北海道開発功労賞を受賞。4年に勲五等双光旭日章を受賞する。
平成11年8月13日、北海道のデザイン界の第一人者として活躍した栗谷川健一は肺炎のため88年の生涯を閉じた。