佐田作郎 (さだ さくろう) 1886年~1945年
対支(中国)貿易の先覚者として海産市場のみならず、函館経済界に幾多の貢献をした海産物商・佐田作郎。
明治19年8月17日、宮崎市に生まれる。宮崎中学校に学び海軍兵学校に入ろうと準備していたところ、たまたま健康を害し最初の希望を打ち棄てて東京水産講習所へ入学する。
明治43年、東京水産講習所を卒業し翌年農商務省の練習生となりカムチャツカに赴き、帰京後大倉商事株式会社に入社する。上海出張所に勤務し、大正2年出張所長に昇進。大倉商事株式会社函館出張所主任として赴任する。
以来、海産物、自動車、機械類等の取引に、氏一流の手腕を発揮し、その中でも鱒の上海取引が前途有望であると判断し、先鞭をつけ函館に於ける最初の直航船を支那(現・中国)に向ける等、対支貿易の先覚者として海産市場のみならず、函館経済界に幾多の貢献をし、それだけに財界は素より社交界一方の重鎮として重きを為し、多面紳士の典型と仰がれていた。
大正3年5月、米穀商で函館市議会議長の山崎松次郎らと柏野競馬場内に6ホールのゴルフ場を開く。
大正15年10月、市会議員の改選期に立候補し当選する。優秀なる成果を挙げた事実は人格の一端を表した証拠で、いかに人望が厚かったかがうかがい知ることが出来る。
狩猟を趣味とし、猟友倶楽部の幹部としては最古参で、写真も得意とした。また、煙草に至っては外国製葉巻、紙煙草を集めるなど洒落た一面を持っていた。
佐田作郎が残したものに元町に現存する木造2階建の国登録有形文化財「プレイリー・ハウス」(旧佐田邸)がある。
この建物は、アメリカの世界的な建築家フランク・ロイド・ライトの弟子である田上義也の設計により、昭和3年に建てられた。
当初は、佐田作郎邸として建てられ、竣工後数年で小熊小五郎邸となり、以後小熊邸として使用されてきた。
意匠はライト風であるが、北国の気候風土に根付いた力強さがある。
L字型平面を持ち、六角形のサッシ割りの連窓、外に大きく張り出した軒などに特色があり、昭和初期のモダン住宅の雰囲気を伝える逸品である。和風、和洋折衷の多い西部地区の住宅の中で、独自のライト風建築として貴重な洋風住宅である。現在は貸別荘として再活用されている。
昭和20年7月12日、函館経済界に貢献し、函館消防組第一部々長として函館火防に尽力した佐田作郎はフィリピン・ルソン島にて戦死。
写真は、佐田作郎、国登録有形文化財「プレイリー・ハウス」(旧佐田邸)(-未添付)