函館市文化・スポーツ振興財団

斉藤大硯 (さいとう たいけん)  1870年~1931年

石川啄木に“快男児・大硯”と言わしめた函館日日新聞社編集長・斉藤大硯。

斉藤大硯

明治3年、青森県弘前に生まれる。本名哲郎。東京専門学校(現・早稲田大学)に学び、「日本新聞社」に入社する。後に、日本新聞社の通信員として台湾に赴くが、放淡な生活から飄然と去る。郷里に帰り、事をなそうとしたが、叶わなかった。

その後、大硯は函館に渡り、「北のめざまし新聞」の記者を経て、主筆となり、同社が「函館日日(にちにち)新聞」となったので、引き続き主筆として健筆をふるい、後に社長となる。

この頃、石川啄木は弥生小学校の代用教員をするかたわら、宮崎郁雨の紹介で「函館日日新聞」の遊軍記者となり、「月曜文壇」と「日日歌壇」を起こし、「辻講釈」の題下に評論を掲げる。当時38歳という若さの大硯は、啄木に“快男児・大硯”と言わしめたほどで、大硯は啄木の面倒をよくみていた。

明治40年8月25日の大火で、新聞社を焼失した大硯は小樽に移り、すでに小樽に来ていた啄木と旧交をあたためる。

かつて北方経営を夢見ていた大硯は、浪々の身を小樽で過ごしているうちに、樺太に理想郷を開拓しようと、樺太庁長官を宿に訪ねるというほどの情熱家でもあった。

しかし、「函館日日新聞」の再刊に際して帰函し、その後は社会事業にたずさわる。函館学生会を設けて進学生を援助し、教育会、図書館、函館慈恵院などにも尽力し、函館慈恵院の主事から常務理事を務めた。

また、少壮にして『学制論』『教育勅語に現れたる王』などの著書を出し、つとに高士の風格があったという。

日本新聞社時代に台湾で総督であった乃木希典(まれすけ)将軍の知遇を得たのを謝し、函館に乃木会を結成し、乃木神社創建に主導的な役割を果たした。

啄木の『一握の砂』の中に大硯を詠った詩がある。


酒のめば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ

樺太に入りて
新しき宗教を創(はじ)めむといふ
友なりしかな
(『一握の砂』忘れがたき人々)


大硯も函館大火で函館日日新聞社を失うなど、啄木以上にそのダメージは大きかったと言えるかもしれない。

大正2年6月22日の啄木一族の埋骨の際には、大硯は啄木会同人を代表して、埋骨の辞を読んだ。

昭和7年、死去。

函館ゆかりの人物伝