坂本森一 (さかもと しんいち) 1887年~1947年
天下の名市長として市民の輿望を担い、大火で意気消沈した市民を元気づけようと函館港まつりを提唱した坂本森一。
明治16年1月7日、東京に生まれる。東京育英館中学を経て、第一高等学校に入学、42年東京帝国大学法科大学政治科を卒業する。43年高等文官試験に合格、翌44年内務省に入る。
群馬県属警部に任じられ、利根、佐波各郡長を歴任し、同県理事官に昇進、ついで岐阜県警察部長に抜擢される。大阪府警察部長を約1年勤務後、大正13年愛知県内務部長に栄転し、同年台湾総督府警務局長の要職に就く。
昭和4年12月27日、第4代函館市長に就任し、8年再選する。直情径行で希に見る至公至平の人格者で、明朗極まる市長であった。
就任後、未解決のまま引き継がれた軌道舗装と電灯動力料金値上げ問題に取り組むことになる。昭和5年、市会議員12名からなる臨時電気事業調査委員会を設置し、電気事業市営化、報償契約改訂、電車運賃改訂に関することの3点について調査する。一方軌道舗装問題については、電車運賃値上げが前提条件のため交渉は暗礁に乗り上げたままとなる。後に、この問題は池田道庁長官が調停に入り、会社側が無条件で軌道舗装に同意することを言明して収拾される。
報償契約が満期となる昭和6年、坂本市長は「市百年の大計である」電気事業市営化のために、市会議員全員を臨時電気事業調査委員に任命し審議を重ねる。契約期間も迫った8月1日の臨時電気事業調査委員会で、委員長の坂本市長は、「委員会は報償契約に基づいて買収交渉せよ」という意志を認定すると宣言し、委員会を打ち切る。
就任以来4年がたち交渉が頓挫していた水電買収問題について、坂本市長は今日までの経過報告を市民講座という名目で直接市民に訴える。講演の大要は、「買収価格の隔たりは市民大衆の理解と後援により解決される問題で、報償契約により買収することが将来市の福利」となり、自らは「市民20万人の支持により飽くまでこの問題に奮闘死力を尽くす」というもので、経過報告であると同時に、報償契約により事業買収を進める決意表明と市民の一致した支持を要請するものだった。
昭和9年3月4日、山崎札幌逓信局長の要請により、函館市と函館水電会社は和解の覚書に調印する。しかし、多くの未解決問題を残したままの和解であった。
昭和9年3月21日、市街地の大半を焼き尽くし数千名の死者を出す函館大火が起こり、坂本森一市長は焦土に立って陣頭指揮をとり復興に当った。また、意気消沈する市民に元気を出そうと提案したのが「函館港まつり」だった。
昭和10年に始まった港まつりは、戦時中は中断していたが、終戦の翌翌年の22年から再開される。この年は新憲法に基づく市長公選が実施された年でもあり、東京に在住していた坂本森一元市長が函館市民に請われて立候補し、大差で返り咲いた。
昭和22年9月18日、病没。27日慰霊堂にて市民葬が執りおこなわれた。