佐藤 哲郎 (さとう てつろう) 1915年~1993年
函館のスキー界はもとより日本のスキー界の先達として永年にわたり優れた業績を残した佐藤哲郎のスキー哲学。
大正3年10月12日、父常治、母のぶえの2男として秋田県由利郡矢島町で生まれる。哲郎7歳の時函館に来る。昭和2年、函館師範学校附属高等科に入学。9年に卒業する。その年の4月、虻田郡京極村の小学校に赴任。13年、函館市立弥生小学校に転任する。その後常盤小学校・新川小学校に勤務。50年、青柳小学校の教頭を経て高盛小学校で42年間の教職生活を終える。
佐藤哲郎は、スポーツ万能で、全道・全国でその名は新聞紙を賑わした。が一方、函館の地に縁が深い石川啄木の研究や絵画、木彫などにも優れたものをもっていた。
若い頃から親しんだスポーツは数多くあるが特にバドミントン、水泳、スキーは群を抜いていた。バドミントンでは、北海道バドミントン大会壮年の部6度の優勝、全日本教職員選手権大会シングルス・ダブルス共に優勝をし、北海道バドミントン協会から特別功労賞を贈られた。
水泳においても永年の功績を称えられ、函館市でただ1人水泳協会から表彰状を受け日本水泳連盟から有功賞が贈られている。
函館の佐藤、北海道の佐藤、全日本の佐藤とその名声をほしいままにしたスキーは、スキー界にとって偉大なる理論家・実践者・指導者として、スキー関係者にとってはまさに神様的存在であった。
昭和14年12月、第1回の全日本スキー連盟指導者講習検定会が山形県五色温泉で実施され11名の合格者が誕生。その2年後、札幌会場で行われた指導者検定に合格者6名という難関を最年少で見事に合格する。
この年からスキー連盟指導者として携わることになる。その永年にわたる卓越した実技と理論を基に、多くの優れたスキーヤーを育て、函館スキー指導員は今や450人を超すメンバーを擁するまでになった。
研究熱心で語学に堪能であった佐藤哲郎は、米国のスキー雑誌に発表された「ウェーデルン」Wedelnという言葉と技術を巧みなイラスト付きの4ページに及ぶプリントで日本で初めて翻訳して紹介した。日本のスキーヤーにWedelnが翻訳出版されたのは、9ヶ月後であった。
平成5年5月2日、ニセコ研修会2日目、ほとんど毎回優勝するのが当然であった「柴田信一杯」で転倒。その夜の懇親会会場で「僕のスキーはこれで終りだ。…80歳まで滑る…と思っていたのに」と独り言のようにつぶやいた。この時すでに胃と肝蔵が2ヶ月後に死に至る重症に侵されていた。我が国スキー界の偉大な先達、佐藤哲郎のスキーはこの時ニセコの急斜面を、残雪を蹴散しての滑降で永遠に終った。
平成5年7月7日、日本スキー界の宝玉佐藤哲郎は大勢のスキー関係者たちに惜しまれつつ78年の生涯をとじた。