篠崎 清次 (しのざき せいじ) 1881年~1917年
北海道聾唖(ろうあ)教育の父にして、函館訓盲院(現・北海道函館聾学校)3代目院長・篠崎清次。
明治14年1月24日、東京市本所区松坂町に三河国旧刈谷藩士篠崎漸(すすむ)、母ふき子の二男として生まれる。幼少の頃の眼病が原因でほとんど失明に近いほどだった。
明治28年3月愛知県西加茂郡拳母(ころも)外四ヶ村立小学校高等科卒業後直ちに名古屋の菓子店に勤める。翌月碧海郡刈谷小学校に助手として採用されるが眼病のために仕事に堪えられず、翌29年3月辞して4月、拳母鴨西医院に入り医師内藤茂喜の下で働きつつ医学の研究を志すが、眼病のため長くは続かなかった。
明治30年2月、義兄城所(長姉の婚家)を頼って函館に渡り雑貨商の店員として働くが、此処でも清次の眼病は仕事の妨げとなった。失意の底に叩きのめされた清次は失意と絶望と焦燥に打ちひしがれ、あてもなく歩いていた時ふと眼に映ったのが「函館訓盲会」の標札だった。直ちに訓盲会の門をたたき、1年間勉学に励み、翌年同会の教師となり、盲唖教育に専心没頭することとなる。
明治33年、訓盲会の関係者である山本介六郎のキリスト教徒としての生活を見て大いに心動かされ、自身もキリスト教徒となり、己の一生を不幸な児童の教育に捧げることを決意する。
明治35年4月のある日、母親に伴われて一人の男の子が訓盲院を訪れる。その子は4歳の時、急性脳膜炎のために聴覚を失なってしまった。山本介六郎は大いに同情し、訓盲院(明治34年改名)に唖生部を設け、清次が受け持つこととなった。これがはからずも北海道における聾唖教育を行った最初の記録となった。
明治36年3月、聾唖教育の実地研究のため東京盲唖学校へ派遣される。36年秋から37年初春にかけて函館訓盲院では人事の大異動があり、清次が3代目の函館訓盲院長となる。その年は訓盲会創立後ちょうど10年を経ていた。
清次は教育者として、盲唖教育だけではなく普通児童の教師としての優れた天分を持ち、童話やお伽噺を語る才能は、人並み以上に優れていた。当時、「おとぎばなしのおじさん」と呼ばれ、函館の名物としてはやされていた。
風雪の夜中、体にむち打って支援金集めとあん摩に出かけることがたびたびあり、ある時、途中で倒れ、通りがかりの人に助けられようやく蘇生したこともあった。それらの過労がたたったのか、大正5年の春から体調をくずし、床に伏したり、起きたりの繰り返しの中、次第に衰弱していき、6年6月20日の明け方、安らかな永遠の眠りに就いた。享年37歳であった。