菅原 繁蔵 (すがわら しげぞう) 1876年~1967年
植物ひとすじに、地位も名誉も生活すらも犠牲にして悔いなく、次代の人々のために、驚くべき数の植物標本を完成させた植物学者・菅原繁蔵
明治9年7月15日、山形県北村山郡東郷村大字白水にて農業を営む父保蔵、母テツの長男として生まれる。少年時代に昆虫採集に凝り、次に草の標本づくりに興味を持つ。
独学で教員免許を取得し、山形県各地で小学校教師を歴任する。明治30年、21歳の時、西村山郡本道寺小学校訓導のとき、モウセンゴケをみつけ植物への関心をより深いものとする。
明治34年、北海道に渡る。一時期教職を辞し、ハッカ、ウイキョウ、サフラン、トウゴマなどの薬草栽培を試みる。
明治42年、天塩国上築別小学校訓導として、ふたたび教職につく。その後、湧別などで小学校訓導を経て、中川郡安平志内小学校長となる。教職に復帰後、昆虫研究への機会と良き指導者を得て、しばらくは昆虫採集研究に勤しむ。大正2年、ヒメギフチョウを採集し、北海道で初の報告として、北大松村松年教授により学会誌に紹介される。7年、東京、札幌、旭川など各地の理科講習会に出席し、郷土植物研究の大切さを強く感じ、この年から植物採集と調査に積極的に取り組む。
大正10年、樺太への植物採集行で樺太植物に魅せられ、永住探査を決意する。11年6月、深草小学校長として赴任、樺太での植物研究生活が始まる。14年8月、摂政宮、高松宮、久邇宮が来島される際にむけて、献上
昭和16年、「樺太植物誌」の発刊などの研究功績により、北海タイムス文化賞を受ける。20年、69歳の高齢ながら、北方植物とくに日本海諸島の植物研究への意欲から、終戦直前の春、再度北海道に渡り、江差中学校(後・江差高校)教師となる。
昭和27年、北海道学芸大学函館分校(現・北海道教育大学函館校)に生物学教室講師として招かれ、植物分類学・系統学等についての講義を担当する。30年、「日本海諸島植物分布の概要」について、日本植物学会で研究成果を発表し、表彰を受ける。翌年、「樺太の植物総括編・地衣類・苔蘇類」を刊行する。「樺太植物の総括」について、日本植物学会で研究講義を行う。
昭和32年、北海道学芸大学函館分校講師を依願退職する。非常勤講師として、植物分類学・系統学についての講義を担当しつつ、研究調査や標本整理をすすめ、各地の植物についての文献資料を表す。33年、「渡島大島・小島の植物誌」「函館山植物誌」「北海道植物名鑑」を刊行。同年、函館市文化賞を受ける。34年、「北海道南部の文化財」「北海道のヨモギ属と小学校植物教材薬用ヨモギ属、ミブヨモギ」を刊行。同年、北海道文化奨励賞を受ける。この年の5月、郷里に戻る。
昭和42年7月、我が国の植物学界に多大なる貢献をした菅原繁蔵は生まれ故郷の山形県東根市神町でその生涯を閉じた。享年91歳だった。