杉野 源次郎 (すぎの げんじろう) 1846年~1887年
官民格差の旧習を打破して市民生活の向上を計ろうとし、各種公共事業に尽力した函館における自由民権の主唱者・杉野源次郎。
弘化3年5月21日、荒物商印杉野三次郎の長男として弁天町に生れる。幼い頃より英敏闊達で、いつも子供達のリーダー的存在であった。
源次郎14歳の時、商業見習いのため福島屋嘉七の店に奉公に出たが、梢々長じて花柳の巷に出入りするようになったので、父はこれを憂い、十勝の漁場に遣わした。漁場に一悍馬(かんば)があって誰もこれを御するものがなかったが、源次郎独りでこれを御したので皆その勇敢に服し、の鬼鹿毛(おにかげ)と称した。
慶応2年箱館に帰り、自家の和洋船具店を大きく伸展させた。明治5年27歳で町用係となり、11年副戸長を命じられた。12年函館区書記に任じ、その学事世話係、同取締、徴兵議員等に挙げられた。以前から病弱を心配した家人と友人達は辞職をすすめたが、男子が一生の職に就いた以上、身の安全を計るべきではないと反論した。
また、各種公共事業にも尽力した。一例をあげると、各町夜回番人の組織、消防組の設置、明治11年には主唱して弁天町に夜学校を設立、これより区内に続々夜学校の設立を見るに至った。
宝学校の開設資金集め、また10年、12年のコレラ流行の際には予防に留意して、寺院墓地が町の中心部に位置しているため衛生面を考慮して移転の運動を行い、遂に寺院の移転を実行するに至った。特に赤川上水取調委員となって函館百年の繁栄を願い献身的な努力を払った。この間、官から義捐、公共の精神に対して木杯を9度贈られている。
源次郎の理想とするところは、官民格差の旧習を打破して市民生活の向上を計ろうとしたものであった。これより先き自由党に加盟して自由民権の説を唱道し、14年開拓使官有物払下事件が起きるや、山本忠礼、井口兵右衛門、工藤弥兵衛、林宇三郎、牧田籐五郎、石田啓三、小野亀治と共にその不当を鳴らし、嘆願書を黒田長官、時任書記官等に提出した。
開拓使官有物払下事件とは、国政問題にまで発展した重大な事件で、北海道開拓使が開拓10ヵ年計画の終了にあたり、官営工場等の官有物を民間に払い下げようとして起きた事件である。払い下げには、薩摩の五代友厚の関西貿易会社が出願し、政府部内の反対は参議大隈重信であった。
また同年9月6日、明治天皇が北海道を巡幸して函館に御駐輦の際、その夜、源次郎ら8人は供奉左大臣有楢川官熾仁親王・参議大隈重信・同大木喬任の旅宿に伺候して一書を捧げ、官有物払下方法の不当な事、特に函館営備倉の地元存続に懸命となった。
源次郎等の気骨ある行動の結末は、12月19日・20日の両日、8人は警察に召喚され1週間の取調べを受け、28日山本以下各罰に処せられ、源次郎は懲役90日、罰金6円75銭を申し渡された。明治20年6月26日、函館における自由民権の主唱者杉野源次郎は病により42年の生涯を閉じた。