千種 基、平井 晴二郎、二木 彦七、松本 荘一郎
H・S・パーマー、J・U・クロフォード
横浜に次いで日本で2番目、日本人による近代水道の第1号を作った人々
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二木 彦七
(函館区長)
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平井 晴二郎
(函館水道工事監督)
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千種 基
(函館水道工事担当)
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J・U・クロフォード
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H・S・パーマー
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松本 荘一郎
(開拓使御用掛)
箱館はもともと良水に乏しい町であった。当時、箱館山と亀田半島を結ぶ砂州部には、湿地が多かったこと、飲料水が不足していたことなどによって開発が遅れていた。これを案じた願乗寺の僧堀川乗経は、亀田川の水を市中に引き入れるため、安政6年、水路を開いた。この川を願乗寺川または堀川と呼んだ。
明治になり函館は、さらに貿易港としての重要性を増していったが、明治10年に発生したコレラの流行や度重なる大火の被害により、本格的な水道建設への要望が高まっていった。
黒田長官の命を受けた御雇外国人ジョセフ・ユリー・クロフォードは、松本荘一郎の助けを受けて12年調査を行い、函館水道報告書を函館支庁長時任為基に提出した。給水人口5万人、1日給水量3100立法メートルとする近代水道計画であったが、同年発生した大火によって建設費を賄うめどを失い、着工には至らなかった。
クロフォードの計画は、横浜で日本初の水道を設計監督した英国人ヘンリー・スペンサー・パーマーに引き継がれた。北海道長官岩村通俊の命を受け20年に提出されたパーマーの計画書は、給水人口6万人、1日給水量4100立法メートルで、総工費23万円にも上るものであったが、災害から立ち直った函館は、それを賄うだけの経済力を備えていた。
岩村長官と、この機を逃したら再び水道布設の機会はないとする二木彦七函館区長や水道起業委員らの強い意志が、この大事業を推し進めた。
21年1月、函館区民の永年の夢であった水道起業が許可になった。函館新聞は「函館区民は誰一人として喜ばないものはいない」と報じた。許可に先立って区民から集められた区債がわずかの期間で11万円にも達したことは、いかに水道への期待が高かったかを示している。
工事監督は、高給な外国人技術者より留学経験のある日本人技術者に委ねる方針となり、鉄道工事で手腕を発揮した平井晴二郎に一任され、千種基が現場の指揮を執った。
22年、世紀の大事業は無事終了した。日本で2番目の近代水道は、亀田川に水源を求め、沈殿池に導水し、そこから元町配水池に送水して市街地各方面に給水するものであった。水道工事の完成後、願乗寺川の使命は終えた。
明治22年9月20日、竣工に先立ち疎水式が盛大に行われた。会場となった函館公園には大きなアーチが立てられ、中央にはイリス商会から寄贈された噴水が配置された。
来賓は500人であったが、会場の周りには数万人もの区民が繰り出し、各町の山車が練り歩いた。興奮は夜になっても冷めず、函館は家々につるされた灯ろうによって不夜城のようであったと伝えられている。