太刀川善吉 (たちかわ ぜんきち) 1884年~1936年
本道の政界・財界に多大なる功績を残した、函館屈指の実業家・二代目太刀川善吉。
明治17年7月31日、先代善吉の長男として函館に生まれる。幼名善一郎。
太刀川家は初代善之助が越後国(現・新潟県)長岡から函館に渡り、米穀・海産商のかたわら、漁業を兼営し、函館屈指の実業家として成功したのに始まる。
明治36年、市立名古屋商業学校を卒業後、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入営する。除隊後、38年陸軍歩兵少尉に任じられ正八位に叙せられる。日露戦争に際し各地に転戦して、その功績により39年勲六等瑞宝章を賜わる。
性格は俊敏にして剛毅、特に商業に縦横の才を振るう。
明治42年、25歳にして父の死にあい、家督を相続して善吉を襲名、太刀川家の全盛時代を築くことになる。28歳の時には、函館米穀商同業組合長に推されたのを始めとして、函館日日新聞、第百十三銀行、石狩製鉄所、大北火災、渡島海岸鉄道、有江鉄工所、函館水電株式会社等の各重役を兼務する。
また、函館区会議員、函館商業会議所議員など公職につき、市政や商工業の発展に尽くした功績は多大であった。特に営業税調査委員、同審査委員、所得税調査委員などを長く務め、所得税調査委員に至っては、札幌税務監督局内に於ける生字引と称され、善吉の決定審査の前には毫厘の違算もなしとして、その道の権威者を驚膽させた。
北海道における税界の権威として、税制に詳しい専門家を育成し、地方納税者に尽くした功労は偉大なものだった。また、まれに見るすぐれた見識、事物の道理を見通す眼識の持ち主で、早くから大勢を見通し、函館市に本店を有する百十三銀行と函館銀行の合併、さらに小樽に本店を有する北海道銀行との大合同に率先努力し、その斡旋にあたり、北海道銀行の基礎を築き、北方経済界の権威とした。
また、雑穀改良委員として、全道12名の委員のリーダーとなり、奔走して同業組合連合会を組織し、本道特産品雑穀を一躍道の内外にその声価を発揚し、遂には海外市場にまで雄飛させたのも、善吉の絶えざる指導の賜であった。
社会、公共の事業への貢献は甚大なものがあり、その功績により、紺綬褒章を賜わる。昭和9年3月の大火に際しては貯蔵米を焚き出し、罹災民を救った。また、秩序維持のため金八千円を投じてオートバイ5台を函館署に寄附し、警備力を補った。
昭和11年2月、本道の政界や財界に多大なる功績を残した太刀川善吉は52年の生涯を閉じた。因みに、太刀川家の栄華を物語る店舗が現存している。
明治34年に初代太刀川善吉により建築された2階建土蔵造りで、市内の土蔵造り店舗の中でも優れたものであり、内外の意匠などに和洋の手法を用いるなど、明治末期の開港場商家の典型として昭和46年、国の重要文化財に指定された。