田口 フク (たぐち ふく) 1903年~1986年
洋髪・パーマネントの先駆者として、函館の婚礼美容の技術を全国的な水準にまで引き上げた明治生れの田口フク。
明治36年函館に生れる。事情あって母と別れた父親と2人で暮らす。旭町の床屋に少しいた後、大正10年の夏、19歳の時横浜元町の小原マサの店に見習いに入る。
小原マサは、その頃函館の銀座通りで繁盛していた床屋「銀座・田口」の長女だった。マサの店は外国人専門で、理髪・洋髪の両方をやっており、横浜でも高級な店で知られ、日本人はめったに訪れる店ではなかった。
フクは自分の髪ぐらいは結えたが、洋髪は見るのも始めてで、外国からの雑誌とか新聞の写真を見てはウェーブの出し方を研究した。
大正10年の大震災の後始末を手伝い、小原マサに勧められて、函館から勉強のため姉マサの所に来ていた田口光雄と結婚。13年に函館に帰ってくる。
函館では、義父が大勢の弟子を使って床屋を開業していたので、その店に同居した。義父は早速婦人部を設けフクにまかせた。市内には、洋髪を結う店が1軒あったが、アイロンを使ってウェーブを出す店はまだなかったので大繁盛した。
当時の函館は、ハイカラ好みの女性が多く、店は毎日お客さんで一杯だった。しかし、まだ洋髪の見習いは1人もいなかったので、朝6時から仕事が終わるのが夜中の12時だった。
フクは1人で昼食も夕食も食べられない日がしょっちゅうあり、身体具合が悪くても病院にも行けないほどだった。
昭和5年、末広町にあった丸井今井デパートで、初めて美容部を設ける事になり、フクに声がかかり「銀座・田口」と両方掛け持ちで仕事をするようになる。
9年、函館大火で丸井今井デパートが焼け、南部坂の下に「マーセル美容院」を開業。弟子も6人抱え商売は順調だった。
昭和11年、義父七蔵は、横浜に行った際、アメリカ製の「シェルトン」というパーマの機械を買って来る。舶来を好む義父は「北海道で初めてのパーマ機」だと自慢していたという。
翌12年には、国産第1号のパーマの機械を購入。店内にはアメリカ製と国産の2台が並んでいた。
昭和15年11月、パーマネント協会が出来、会長となった。昭和16年、太平洋戦争が始まり、パーマネントは、敵国のものと排斥されるようになり、美容組合では「整髪運動」に乗り出した。
昭和20年3月、敗戦の色濃い春、建物疎開が始まりフクの店も引越すことになる。昭和21年9月、進駐軍からの依頼で、米軍将校夫人の美容を受け持つ事になり、「銀座・田口」の並びに開業する。
店内は、日本人と将校夫人専用の部屋を別々に仕切り、将校夫人には髪だけでなく、マッサージ、マニキュア等もした。フクは横浜時代にこれらをマスターしており、片言の英語でも十分であった。
昭和25年には、野又学園の各種学校に美容科があり講師となる。これが後に道南高等理容美容学校となり引続き講師を勤める。同時に、棒二森屋デパートに美容室を開く。36年に長男夫婦にゆずり渡す迄、高砂町の店と掛け持ちで経営していた。
その後、後進の指導に当たりながら、宮前町の「マーセル美容室」で生涯現役を続け、昭和61年2月6日くも膜下出血で84年の人生に幕を閉じた。