高橋 掬太郎 (たかはし きくたろう) 1901年~1970年
函館日日新聞社の記者として活躍しながらも、全国を風靡する空前の大ヒットとなった「酒は涙か溜息か」を作詩した高橋掬太郎。
明治34年4月25日、千島で漁業に従事する父高橋菊治、母フデの長男として根室町(現・根室市)に生まれ、「菊太郎」と命名される。大正4年、この頃から詩歌を作り始める。
大正8年、根室商業学校を中退し、茂又勝雄の私塾に通い、国文学を学ぶ。9年根室新聞社に入り、社会部の記者となる。この頃より、高橋春波のペンネームで文芸活動を始める。翌10年はじめての戯曲「春の湖」を地方の新派芝居喜多村春男一座に書く。同年2月に野口雨情の民謡集「別後」が出版され、野口雨情の主唱する新民謡運動に共鳴、詩作に影響を受ける。
大正11年12月、函館日日新聞社に転ずる。後に昭和2年頃、同社社会部長兼学芸部長となる。
大正15年、函館花柳界の委嘱により「函館音頭」(鳥羽屋三十郎作曲)を作詩する。これが世に用いられた最初の歌謡作品となる。続いて、常磐津「北の幸」(常磐津梅治作曲)を作る。昭和3年、「函館行進曲」を自作映画(原作、脚色、監督、高橋掬太郎)の主題歌として作る。
昭和5年、友人片平庸人が発行する民謡雑誌「艸」に「酒は涙か溜息か」を発表する。この年の7月に槇妙子と結婚。宝来町で新婚生活を送る。「酒は涙か溜息か」「私この頃憂鬱よ」の2篇を新進作曲家古賀政男を指名してコロンビアレコードへ送る。6年5月、「函館行進曲」(貝塚正治郎作曲)がコロンビアレコードからレコードとして発売される。9月、「酒は涙か溜息か」(歌手藤山一郎)、「私この頃憂鬱よ」(歌手淡谷のり子)を古賀政男の作曲でコロンビアレコードから発表。全国を風靡する空前の大ヒットとなる。高橋掬太郎、古賀政男、藤山一郎、淡谷のり子の4人にとってはじめてのヒット作となる。
昭和7年、一家を構えて母や妹を函館に迎える。翌8年、函館日日新聞社を退いて妙子夫人とともに上京する。居を東京蒲田に構え、作詩生活に入る。コロンビア、キング、テイチク、ニットー、ツル、その他各レコード会社から作品を発表する。
昭和12年、「菊太郎」を「掬太郎」と改名する。
昭和14年、8月から10月まで北支戦線に陸軍省嘱託として従軍し、軍歌、歌謡曲、童謡、三味線小唄などを作詩し、北京にて発表会を開く。
昭和16年秋、童謡「山の子供」が時の文部大臣から賞を受ける。同年12月、後進指導のため、 々詩舎(ほうほうししゃ)を設け、直接、又は通信による指導を行う。昭和45年に没するまで入門者は約2000人に達した。その中から藤間哲郎、大高ひさを、石本美由紀、宮川哲夫、梅本たかし、東條寿三郎、山崎正などレコード界で活躍する多数の作詩家を輩出している。
昭和22年2月、日本音楽著作家組合の結成に参加する。第1回より常任委員に選出され、33年に副委員長となる。25年5月、同志とともに日本民謡協会を結成し、理事となる。また、35年5月には、日本詩人連盟を結成し、第1回より常任理事を歴任する。
昭和36年9月、宝来町に「酒は涙か溜息か」の歌碑が建立される。
昭和45年3月9日、慈恵医大に入院。4月9日に他界した。享年69歳であった。同日従五位に叙せられ、勲四等旭日小綬章を授与された。