函館市文化・スポーツ振興財団

高勢 実乗(本名 能登谷新一) (たかせ みのる)  1897年~1947年

特異な扮装と演技で国中の人々を笑わせたり、喜ばせたりした映画界の奇人。“ワシヤ、カナワンヨ”の台詞で一世を風靡したアーノネのオッサンこと高勢実乗。

高勢 実乗(本名 能登谷新一)

高勢実乗といってもピンとこないだろうが年配の方であればアーノネのオッサンといえばあー、あのひげとちょんまげのと思い出す人も多いだろう。

高勢実乗は本名を能登谷新ーといい、明治30年12月に函館で生まれた。小学生の時に新派を見て感激、俳優に憧れたという。

明治38年、高勢実乗8歳の時上京、劇団を転々とする。映画界入りの前は、一座の座長として中部名古屋あたりでその名を知られた立役者であった。その頃はまじめな芝居で売っていた。

当時、東京の新派の大御所で高田実という名優がいて、その名は全国に知れわたっていた。高勢実乗は名古屋の高田実だと評判されるくらい人気があった。この時の芸名高勢実もそうしたところから付けられたらしい。
明治45年、帝国活動写真株式会社に入社。映画界入りする。

大正8年に日活向島撮映所に二枚目の役者として入社、「西廟記」「松本訓導」翌年には、「湖畔の乙女」「寒椿」に出演したが、間もなく退社する。地方巡業の一座を組んで歩いたすえ、相馬一平と改名して松竹の時代劇に入り、衣笠貞之助監督の作品に多数出演した。しかしその頃売り出しの人気スター林長二郎とイキが合わず、高勢実乗と再度改名して日活入社。大河内伝次郎の敵役に選ばれ、「血煙荒神山」で初顔合わせをした。

大河内伝次郎はものすごい近視でチャンバラになるとメクラめっぽう斬りまくるとおどかされた高勢実乗は、真剣を持ってやると言い出し、真剣同士のチャンバラが始まった。このシーンはそれまでに見ることのなかった程の迫力を生んだ。高勢実乗は、こうした熱演役者であった。

特異なマスクで熱演するとグロテスクで、観客は彼がスクリーンに出ると目をつぶるという始末で、映画館主たちからも“高勢をスクリーンに出すな”という声が上がった。これを百八十度転向させたのは、伊丹万作監督の「国士無双」であった。この喜劇的熱演の成功により、従来のイメージをガラリと変え、後に鳥羽陽之助と組んで「極楽コンビ」というシリーズで多くの楽しい作品を生んでゆくことになる。

山中貞雄監督や稲垣浩監督の作品にのこのこと出ては“どうやオッサン、わしが出たから見物がはいったじゃろうが”と平然と言い放っていた。実際その芝居がクサビとなり一味深くおもしろい映画になった。

高勢実乗はだれかれなくオッサンと呼んだ。それが逆に自分の渾名となってしまった。そしてその人気が最高に達した時“ワシャ、カナワンヨ”ということばが全国に流行、戦争で暗かった気分を明るいものにした。ところが軍部から、“この非常時にカナワンとは何事だ”としかりを受け、彼のとっぴな演技も、自粛するように命じられた。

そして戦後、いつの間にか高勢実乗の姿は消えた。
昭和22年11月、華やかな葬儀もなくこの世を去った。
高勢実乗は、戦前活躍した函館出身の数少ない俳優の1人であった。

函館ゆかりの人物伝