竹内下野守保徳 (たけうちしもつけのかみやすのり) 1807年~1867年
北辺防備の必要性を説き五稜郭・弁天岬台場などを実現させた初代の箱館奉行、竹内下野守保徳。
文化4年生まれ、幼名清太郎。幕府旗本の武士にして勘定となり、老中阿部正弘に抜擢されて勘定組頭から勘定吟味役に進む。
嘉永6年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊の来航により、翌安政元年3月に日米和親条約が締結され、下田と箱館の開港が決定する。当時の蝦夷地はロシアの南下政策に伴う国境問題処理などの対外政策、北辺防備や蝦夷地開拓の目的で箱館奉行が再設置される。
箱館奉行(蝦夷奉行・松前奉行)は、対ロシア政策による蝦夷地の直轄化に伴い享和2年に設置され、文政4年に松前藩が蝦夷地に復領するまでの間、存続したことがある。
再設置された箱館奉行所は、当初2人が任命されたが、その後、在府・在箱・巡見の3人体制となり、幕府瓦解までの14年間、蝦夷地統合と対外政策の任を担った。
安政元年、幕府は竹内下野守保徳と堀織部正利照を箱館奉行に任じる。竹内は江戸にあって、6月下野守に任命され従五位下を授かり、8月江戸をたち、9月には箱館に着任する。
竹内と堀は、開港に伴う外国人の遊歩や港湾防備上の問題などから、箱館山のふもと(現・元町)にあった奉行所を港から離れた内陸の亀田の地へ移転する計画書を上申する。
上申書には、亀田の場所は地形的にも生活環境的にも非常に利点があり、また防御面でも有効であると記されている。
安政2年には、碇泊中の米捕鯨船員の上陸止泊を拒否して、日米条約の彼我見解の相違を明らかにする。
文久元年1月、竹内は勘定奉行兼外国奉行を任じられる。壌夷運動が活発化し、開港都市延期が不可避となりその交渉のために遣欧使節団の正使に任命される。
12月30余名の幕府使節団が、ヨーロッパの締約国イギリス、フランス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルへ派遣される。
使節団に与えられた主な役割は、開港・開市の延期を確約すること、西洋事情を視察すること、ロシアとの樺太境界を定めることであった。
文久2年12月、大任を果たして一行は帰国するが、攘夷の嵐のなか欧州での見聞の口外は一切禁じられる。翌年勘定奉行を辞任。元治元年、大坂町奉行に推薦されるが着任せずに退隠する。
帰国後は冷遇され西丸留守居役に左遷されて以後活躍の機会は訪れず、慶応3年、58歳にて没す。
箱館在住中よく鰊が獲れたので、「ニシン奉行」と愛称された。