明治44年3月30日、大森町で生まれる。本名は工藤誠一。父親は函館港のハシケ舟の船頭で、いろいろな荷役をやる舟のカシラだった。小学校卒業後、父親の知り合いの回船問屋に奉公に出る。当時、函館港は北洋漁業の中心地でたいへん賑やいでおり、東京から相撲もよくやってきた。場所入りするときの紋付、羽織、袴の正装、大銀杏を結った関取衆は子供たちの憧れの的だった。“俺も相撲取になってやるぞ”子供心に巴潟は心に決めたそうだ。
大正14年の夏、勧進元古川栄八氏に連れられて出羽海部屋へ行くが玄関払いを食う。次に立浪部屋へ、そこで高島親方を紹介され、本家筋の雷(いかずち)部屋に入る。数え年で15歳であった。苦しい新弟子検査に合格し、それから半年ほどたったあとの大正15年5月、初土俵の場所で相撲協会の人員整理に遭う。この時協会の財政はドン底にあった。序二段以下の者を対象にして首切りを行った。体の小さい者、どことなく非力そうな者が対象になった。
しかし人の運命とはわからないもの。5月場所を打ち上げたあと、北海道巡業があり、可哀そうだから函館の巡業だけは連れていってやろうと、とりあえず巡業の一行にはいることになった。函館から道内を巡り樺太へそして室蘭から青森へ渡った頃には、巴潟の整理の話もウヤムヤになっていた。
相手にまわしを取られぬよう、体に食い込むほどきつく締め、一直線にぶつかったので“弾丸”と呼ばれた。あるときは、立ち合いの瞬間、相手に逃げられて、自分一人でさじきまで飛んでいったこともあった。それと、けいこ熱心なことは良く知られていた。“巴関はあんなにけいこしていたら心臓を悪くして死んでしまう”といわれたぐらいよくけいこをした。
昭和7年、春場所は幕下だったが、大関大ノ里、関脇天竜らの脱退騒ぎで、改正番付けで十両に繰り上げられ、十両1場所で夏に入幕した。
昭和16年1月場所限りで引退、友綱を襲名。年寄高島を継いで横綱吉葉山、大関三根山、関脇輝昇を育て、相撲協会理事を務めた。三根山の引退で高島を譲り友綱に戻り、昭和51年3月、65歳で定年退職した。退職後は部屋を改装しチャンコ料理店を経営、時おりテレビに顔をだしていた。
“角界彦左”と呼ばれ、NHKのテレビ解説でも歯に衣着せぬ語り口で人気のあった工藤誠一(先代友綱、元巴潟)は昭和54年12月24日肝硬変のため67年の生涯を閉じた。
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