明治39年11月19日、西川町(現・豊川町)にて父・治平、母・ふみの長男として生まれる。父・治平は越後の加茂町に生まれ、18歳の時に呉服問屋を開く叔父を頼って函館に来る。そしてその頃の気運に乗じて質屋業として身を立てる。
外山定男は公立高砂尋常小学校から函館商業学校へ進み、慶応大学で英文学を専攻し、西脇順三郎教授に師事する。
昭和5年、大学を卒業した後、一時、函館へ戻るが、イギリス留学の夢断ちがたく、父の許しを得てイギリスのハル大学に留学、近世英文学を学ぶ。2年8ヵ月ほどの滞英の後、昭和9年の夏、帰国する。留学中に学んだシェラァド・ヴァインズ先生に投げかけられたテーマ、”16世紀のイギリスの詩人エドマンド・スペンサーの詩集「仙女王」の表現の研究とその翻訳“に取りかかる。
昭和10年12月、函館で関口友江と結婚し、11年2月夫婦で上京、約1年間を過ごす。この間も、「仙女王」の翻訳を継続し、12年に第1巻を完了し「不老閣」より出版する。
戦時中は陸軍通訳官、戦後、北海道庁通訳官、そして23年の6月に北海道教育大学函館分校の前身、北海道第二師範学校の教授となる。25年に北海道学芸大学函館分校教授、29年から33年まで同分校主事を務め、45年に定年退職した。この間英文学を講じ、教育の面で多大な功績を残し、多くの人材を育てた。また、「仙女王」の翻訳も続け、学生たちからは”スペンサーの先生“の愛称で親しまれた。主事時代には学生のストライキ対策に苦労した体験をもつ。
一方では、「丘の句会」を結成し俳句の世界に遊び、さらに、詩作あるいは現代詩の翻訳にも手を染めた。北海道教育大学函館分校を退官した後は奥の細道を訪ね、また、アメリカ旅行を楽しむなど、悠々自適の生活を送り、その間ライフワークとしての「仙女王」の翻訳を進めていた。
昭和47年に函館市文化賞を受賞。さらに52年には勲三等瑞宝章を受賞する。
昭和60年、一時病に伏したが、再起し、「仙女王」の訳業を進めた。しかし、残るは出版のみというところまできていながら、病には勝てず、出版完成を見ず昭和63年12月25日、脳硬塞により82年の生涯を閉じた。
主な著書及び研究書に、「詩集・感情漏洩」、「翻訳・仙女王第一巻」、「詩集・歎きと祈り」、「翻訳・バイロン全集第一巻」、「翻訳・仙女王第二巻」以後第6巻3章まで完了、「随筆・三寒四温」、「エドマンド・スペンサー」、「とつおいつ-随筆集-」等がある。
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