明治9年の暮れ、会津白虎隊の生き残りの勇士、宝蔵院流槍術師範・土子兵衛門定國の長男として船魂神社(元町)の敷地内で生まれる。
父兵衛門定國は、会津若松鶴ヶ城二十八万石松平容保公の家臣で、宝蔵院流槍術の達人。戊辰の役では会津長明寺裏の激戦に一方の隊長として奮戦した。明治8年に函館に移住してからは、税関の官吏を18年勤めた。
土子毅は弥生小学校から栃木県の宇都宮中学を経て、東京外国語学校の露語科に学び、更に慶応義塾に進み、福沢諭吉の下で理財学を学ぶ。卒業後、同級生は実業界に入るが、毅は中学校教諭、英語科教官、そして小樽や函館の海事局へ勤め、青春の数年をお役人生活するが明治40年に退職。
その後、函館で英和学会をつくったり、家庭教師をしたり、頼まれると、お嫁取りの口上から、祝辞・弔辞の代筆をするなどした。着たきり雀の古布子一枚に、布袋腹に袴姿で異様な風体と、底知れぬ博識で、街の大博士となり、人気も函館一で、30余年間、様々な逸話を残し、世人は″チョイナ先生″と呼んで親しんだ。
当時函館のインテリとして、学生に英語・ロシア語・数学・国語・漢語などを教え、また一方では戸田流棒術・起倒流柔術・東池坊生花・裏千家茶・盆景・碁・将棋・尺八など、驚くべき多才で、殊に晩年におけるロシア語に至っては、もの凄い頭脳のよさを示し、大正11年に出版された著書「すぐ解る・露語獨学び」は当時としては画期的かつユニークな辞書で、露語を知らない初学の人や教師に就かずに独学で習得できるように工夫されていた。
また、演劇にも通じ俳優との交流もあり、新派・旧派を問わず、来道来函する俳優は、必ず毅の所へ仁義を通す不文律があった。毅もまた菓子折をさげて楽屋に出掛けた。「ルンペン生活」をしながら、花柳界に人気があったのは、毅の愛すべき童心の外に、高麗屋・成駒屋と友達付き合いが出来るからだった。毅の唯一の道楽は、甘い物を腹一杯食べて、所かまわずコクリコクリと寝ることだった。
カフェーや喫茶店での長居なども有名だった。一杯のコーヒーを飲み干してから、おもむろに水と砂糖をたのみ、ノンビリ2時間も頑張ることを、函館人に教えたのも毅だった。二十貫(75キロ)の体を、ボロの着物とヤブレ袴でつつみ、ホロ酔になっては、体に似合わぬ可愛い声で、唄を歌い出す。そうかと思うと、芸者から預かった軸物2つを質に入れて、警察署で調べられたりと破天荒な面もあった。
昭和11年11月16日、土子毅は胃ガンにより死亡。61年の生涯であった。
厚沢部町にある「碧血碑」の文字は土子毅が書いたものである。
|