天保9年4月8日、父与兵衛の子として函館にて生まれる。幼名を次郎といい、後に父の名を襲名した。
家が貧しかったため、嘉永元年11歳の時、父の命により大阪に丁稚奉公に出され、以来8年間みっちりと本場の商売を学んだ。19歳で函館に戻り、父の勤め先であった伊藤佐治兵衛に仕え、20歳にして独立した。木綿売りから始め、外国商品の仲買をし、こつこつと貯めた資金を元に大町に茶店を開く。後に恵比須町に支店を出し、又書店も経営、2階に夜学校を開設した。
明治元年町役人となり、初めて公共の用務につくと、函館の最大の難点であった火防に意を用い、消防組を編成し、さらに公共事業に率先して参画していった。
10年11月第14大区戸長となり、町政を刷新し、常磐学校、住吉学校、宝学校の建設をし、市民救助のための豊川病院の設立、衛生面ではコレラの予防に努め、上水道の計画、また函館公園の開設、道路区画の改正など、その業積は数えきれない。
12年、函館では「大小区相廃シ」を受けて町会所内の第14、15、16大区区務所が廃止され、江戸時代以来函館の町政を担当してきた町会所もその業務を区役所に引き継ぐこととなった。この年の10月14日、常野与兵衛は初代区長に任命された。郡区制の区長就任以後、正義と名乗った。
函館の四天王といわれた渡辺熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門、平塚時蔵ら住民と一致協力して函館の黄金時代を築いた。
13年12月、病にて退任したが、その功績により、15年、藍綬褒章(道内第1号、尚2号~5号は四天王が受章)を受章した。
真面目な性格で住民から慕われ、政財界においても重鎮を成した名区長常野正義は、病がもとで明治37年7月12日67歳の生涯を閉じた。
41年、函館区会の決議により特に常野正義の肖像を区会議事堂に掲げてその功績を讃えた。
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