中川 嘉兵衛 (なかがわ かへえ) 1817年~1897年
国内で初めて採氷を試み、失敗を重ねながらも五稜郭の外壕で天然氷「龍紋氷」を採氷した製氷家。
文化14年1月14日三河国額田郡伊賀村(現愛知県岡崎市)に生まれる。16歳のとき京都に出て、厳垣松苗翁の門に入り漢学を修める。
横浜開港の時、京を去って江戸に出、英国公使の厨丁となる。牛乳店や衛生・食品などの洋式の新事業を手がけるうちに製氷事業が最も有望であることに着眼する。
当時、氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、外国人医師が治療用に利用する場合もあった。この氷は主にアメリカのボストン周辺の天然産のもので、長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。
文久元年、嘉兵衛は国内最初の採氷を富士山麓において試みたが失敗。ついで3年信州諏訪湖、元治元年日光山中、慶応元年奥州釜石、2年青森県堤川と試みたが何れも好成績を得るにいたらなかった。さらに北上して3年箱館に渡来し、上磯の有川に採氷池を設けたがこれも失敗した。
明治元年、ブラキストンの忠告に随い英国人ジョージを雇い入れ、五稜郭の外壕で初めて天然氷約500トンの採氷に成功した。五稜郭の外壕の水は水質が極めて清冽で運搬に便利であった。
明治4年の夏に五稜郭産の氷(函館氷)が京浜市場に登場しはじめ、この年の移出量は670トンで翌5年には1061トンと産出量もほぼ倍増した。これらはいずれもイギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送された。
新池の開削費や京浜地方への運賃、市場でのボストンアイスカンパニーとの販売競争、暖冬、大風などの自然条件による被害で企業的には辛酸をなめた。しかし、開拓使の資金援助をとりつけ、米国から伐氷機を購入し、品質の向上を計り、ついにボストン商会の駆逐に成功した。
14年、内国勧業博覧会に出品して賞牌を受けた。その賞牌の表面に龍の紋章を附したことから「龍紋氷」と呼ばれ、函館名産に成長した。
23年、五稜郭外壕貸与規則が変更されて競争入札になったので、亀田郡神山村に製氷池を新設し、さらに事業を拡張して晩年までこれを継続した。29年、北原鉦太郎に事業を譲り東京に居を移した。
嘉兵衛は性篤実で、人に対して謙譲かつ慈善を好んだ。着手した事業は製氷の外、苹果(へいか、りんご)の栽培、鱈肝油の製造などであった。また明治12年開拓使庁より物産大取次を命じられ、その事に当るや専心一意他を顧みなかった。
明治30年1月4日東京越前堀の自宅において歿した。享年80歳。