中村 進五郎 (なかむら しんごろう) 1904年~1957年
「やもり朗読会」から「函館ドラマ研究会」そして「函館小劇場」と、作・演出・役者として当時の函館演劇界をリードし、前進座で開花、舞台と銀幕で活躍した中村進五郎。
明治37年8月12日、青森県出身で北海道最初の常設映画館・錦輝館を興した岩見永次郎を父に函館市内で生まれる。”ノッちゃん“こと本名岩見昇は、後に前進座に在って、歌舞伎名を中村進五郎と称した。
父、永次郎は明治20年5月函館に渡る。池田座に勤めつぶさに演劇興行を経験、42年蓬来町に錦輝館を建設した。ついでオデオン座や札幌の大黒座、小樽、旭川まで手をのばして、錦座チェーンをつくり、北海道興行界に君臨した。
大正15年、岩見昇を中心に、脚本の朗読研究と模型舞台の研究、製作を主とする「やもり朗読会」が誕生。これは京大出身で建築師だったフランス帰りの埴原欽二郎が、極光社書店を経営していたとき、同書店2階の1室を開放してもらい、室名を”やもりの巣“と名付けたことから始まる。更に久生十蘭、無花果産の滝沢俊雄を加え、後に小森仁三郎らの援助も加り「函館ドラマ研究会」と改称した。岩見昇は会長となり、演出文芸部での別名を和田船人、演技部の芸名を小野竜と名のった。
第1回試演会は昭和元年12月29日、遊楽館で、小山内薫作「息子」和田船人作「桜時雨」鴇田英太郎作「移住民」など一幕物を全演出・和田船人で上演された。
2年の第2回試演会も全演出・和田船人が担当。ほかに高橋掬太郎のシナリオ・監督による商店街PR映画「函館行進曲」全6巻などに出演した。この年、「函館ドラマ研究会」を「函館小劇場」と改称した。
4年、小山内薫の死によって築地が分裂したとき、そのどちらにも属さない中間的なグループが、西谷小三郎の主催により函館だけで公演した。演目はイプセンの「幽霊」三幕でこのとき函館小劇場が応援出演した。アーイング夫人を演じた杉村春子はそのころを回想して”…わずかに進五郎さんと、リハーサルをした西谷小三郎さん宅の応接室などしか記憶がありません…“と。
前進座入りのキッカケを”…はじめは築地の研究生になるべく上京したが、頼りにした薄田トウさん(研二)は、生憎く旅興行で留守、では新国劇と訪ねたらこれも旅、フト眼についた前進座の公演ビラ、そうだ前進座があったのだと気がつき、そのまま入座した訳になります…“と。
日活、前進座提携映画の「街の入墨者」「河内山宗俊」などで、監督としてツキ合った山中貞雄は、中村進五郎の演技ぶりを買って”オッサン“と、大いに親近感を寄せていたそうだ。撮影中”あのねおっさん、わしゃかなわんよ“のナンセンスぜりふで人気を博した同じ函館出身の高勢実乗と、しきりに演技の工夫を競いあい、ラストシーンの長屋の餅つきで、かっぽれ坊主に扮した進五郎が打ち合せなしにツルツルに剃りあげた地頭であらわれたとき、「こりゃ油断ならない役者だ」と東西屋役の高勢が洩らしていたというエピソードが残っている。
また山中貞雄が脚色し滝沢英輔が監督した「戦国郡盗伝」では岩松という野武士の大役を与えられている。
昭和32年4月13日、4年余の闘病を続けていた中村進五郎は脳出血の再発で53歳の生涯をとじた。”かれは新劇的な演技術と歌舞伎の手法をともにこなしてユニークな芸風をつくった貴重な存在だった。”中村翫右衛門。