函館市文化・スポーツ振興財団

チャールズ・ネトルシップ  生没年不詳

函館にアイヌの学校を設立し、市民にスポーツも教えた英国人宣教師で教育者のチャールズ・ネトルシップ。

チャールズ・ネトルシップ

英国エセックス・スタッフォード出身。
明治22年、チャーチ・アーミイ(イギリス聖公会)所属の宣教師としてニュージーランドから来日する。

当時、イギリス聖公会が北海道のアイヌ教育にたいへん力を入れており、ネトルシップはアイヌ伝道を主たる任務として、聖公会本部から派遣されてくる。

初め幌別に着任。後に函館に移って成果を挙げ「チャーチ・アーミイ伝道隊」を組織し、野外伝道を積極的に行う。

明治24年にはすでにペイン女史によって釧路地方の春採部落にアイヌ学校が建てられていた。

ネトルシップは、アイヌ伝道の目的を以て青年を養育しようと明治25年11月、ジョン・バチュラーの援助により元町にアイヌ民族の学校を設ける。この学校はすぐに青柳町に移転となり、翌年、谷地頭山腹に校舎を新築しネトルシップは校長となる。

ジョン・バチュラーは、アイヌの生活改善・学校・病院の設立に尽力し、アイヌ民族の保護を訴え続け、「アイヌの父」として敬愛されたイギリス宣教師です。

この学校には、函館のみならず十勝、胆振、日高方面からも入学する者がおり、寄宿舎で生活するようになる。この学校は準小学校で、尋常小学校の課程にローマ字と聖書が加えられ、のちに附属育児院も併置された。

各地の小学校在学のアイヌ少年の内、優秀なる者を選抜収容し、学用品はもちろん、衣食に至るまでことごとく之を支給し、雇っていた日本の教師と共に教授した。

明治32年、休暇で1年間英国に戻り、再び来函して伝道に従事する。当時、函館の新川町で医療伝道していたコロンボ宣教師の通信に寄ると、「ネトルシップ夫妻」とあるので、夫婦で来たようである。

36年には真砂町(現・大手町)に伝道所を開設、週3回の集会を開き、この間小樽にも開拓伝道を行っている。37年には日露戦争出征兵へ慰問伝道する。

数年後、この学校の校勢は振るわずに明治39年、閉鎖となる。翌年の大火で校舎が焼け、そのまま廃絶となった。

第一次世界大戦後、チャーチ・アーミイ伝道教会が海外宣教費を削減したためネトルシップ所属の教会も廃止となり、アメリカに渡り、のち本国へ戻った。

ネトルシップは伝道活動やアイヌ教育のほかにも、函館市民にホッケーやフットボールを紹介し、中学生に野球を教えたという。ホッケーは、600年以上も前からあるといわれる世界最古の球技で、函館の人は、これを「アヌベス」と呼んで親しんだ。

函館ゆかりの人物伝