野田 高梧 (のだ こうご) 1893年~1968年
日本を代表する映画監督小津安二郎の最も重要なパートナーで、シナリオ・ライター協会の初代会長。
明治26年、野田高梧は函館で生まれる。父は函館税関長だった。高梧は末弟の5男。3男に日本画家野田九浦(芸術院会員、1971年没)がいる。
小学校卒業後、名古屋に移り、早稲田大学英文科を卒業して東京市の史料編纂室に入る。その後、「活動倶楽部」の雑誌記者(ペンネーム緑川春之助)をやり、愛知一中の同窓小田喬が松竹脚本部へ入ったのを機に、小田の推薦で松竹脚本部へ入った。
関東大震災(大正12年9月1日)あとの暮れであった。当時の松竹脚本部はシナリオのメッカとも呼ばれ、野田高梧を筆頭に伏見晁、池田忠雄、柳井隆雄、斉藤良輔、猪股勝人等その他新旧合わせて10数名と多士済々で、このように質・量ともに充実した脚本部が存在していたのは日本の映画界では空前絶後のことであった。
それは城戸四郎所長が映画に於けるシナリオの重要性を強く主張した人だったからで、今日シナリオコンクールに城戸賞の名のある所以である。高梧は撮影所内に脚本研究所を設立し、後輩の指導に努め、1936年シナリオ・ライター協会の初代会長になった。
野田高梧の作品は、日常的物事、人々との善良さ、そして人生の無常や美を映画ならではの手法で表現した日本を代表する映画監督小津安二郎とのコンビで良く知られている。
アメリカ映画「豪雨の夜」や「文明の破壊」をベースにした野田高梧の脚本「懺悔の刃」が小津監督の処女作となる。以後サイレントで12本、トーキーになってからは「晩春」から「秋刀魚の味」までの全小津作品13本が2人の手によった。
小津監督はその息の合った仕事ぶりを次のように語る。
「僕と野田さんの共同シナリオというのは、もちろん、セリフ1つまで2人して考えるんだ。
しかし、セットのディテールや衣裳まで2人の頭の中のイメージがピッタリと合うというのかな、話が絶対にチグハグにならないんだ。セリフの言葉尻を『わ』にするか『よ』にするかまで合うんだね。これは不思議だね」と。
このコンビで、名作のシナリオは次々に生まれていった。
昭和43年9月23日、脚本界最長老の人、野田高梧は、蓼科山荘で、朝、洗面所でたおれ、そのまま安らかに息をひきとった。この山荘では小津作品の多くが執筆され、親しく馴染んだ蓼料であった。