函館市文化・スポーツ振興財団

初代 野路雷三郎 (のじ らいさぶろう) 1871年~1919年
二代目 吉次郎 (きちじろう) 1892年~1937年
三代目 松太郎 (まつたろう) 1908年~1973年
雷三郎の長女・吉次郎の妻この 1898年~1997年

一世紀を超えた函館の老舗、大門名物の餅菓子といなりずしの弁慶力餅三晃堂。


野路雷三郎


野路松太郎


野路この

初代・野路雷三郎は明治4年、坂田郡長浜町宮町(現・長浜市宮前町)に父・吾一、母・よそとの間に生まれる。学業を修め菓子修業に就く。

37年、新天地を求めて渡道。小樽・室蘭などを過ぎて40年8月、現在の場所に店舗を構え、商号を三晃堂と称して菓子の製造販売を始める。

大正期に砂糖・麦粉の卸売業も行うようになり、大門通り商店街にその人ありと云われる存在となる。

二代目・吉次郎は明治25年、長浜町北門前町(現・長浜市宮前町)に生まれる。雷三郎の甥。大正7年、野路家の婿養子として雷三郎の長女・このと結婚し、家業に専念する。

8年3月、岳父・雷三郎が没し跡目を継ぐ。しかし、数年にして不況期に入り、卸部門を廃し菓子業に専念し、再び盛業を続けるが後に病のため転地療養中に没す。

このは明治43年、13歳で母はると共に来函じ、夫亡き後三代目・松太郎を雇い入れ養子とする。亡くなる2年前までの84年間、年中無休で店の運営に携わる。享年100歳の大往生だった。

三代目・松太郎は明治41年1月27日、青森県北津軽郡五所川原町栄村大字蛯萢(えびやち)船橋(現・五所川原市蛯萢)の父・木村三郎、母・ヲキの5男として生まれる。大正8年来函、野路三晃堂商店に入店する。

昭和5年、野路家の養子となる。9年3月、函館大火に罹災し店舗その他を全焼するも同年同所に店舗を再築する。終戦後、商品がないために北海道のスルメ、昆布等を内地で売ってみたり、下海岸の小蟹を油で空揚げして啄木蟹と称して販売したり、のしするめの製造を手掛けたり、塩まめ、 いり栗を製造販売する。

24年、統制解除と共に大福餅等に「弁慶力餅」と名付け餅菓子を主体とした和菓子製造販売を主として営業する。34年、「いなりずし」発売を機に店舗内に食堂を併設、餅菓子といなりずしは大門名物と宣伝される。

病床にあった三代目・松太郎は、48年1月29日没する。
松太郎亡き後、初代・雷三郎の長女このが家業を守る。昭和54年、東京務めを終えた松太郎の長男・邦英が2年間の勉強の後、このより家業を引き継ぎ四代目・弁慶力餅三晃堂社長となる。

野路三晃堂より弁慶力餅三晃堂となり、明治40年より現在(平成25年)まで107年の長きにわたり商売を続けてくることが出来たのは、各世代の尽力はもちろんだが、このの陰の継続的な強い力がなければ出来ないことだった。

函館ゆかりの人物伝