M.C.ハリス (Merriman Colbert Harris) 1846~1921
フローラ・リディア・べスト・ハリス(Flora Lydia Best Harris)(1850~1909)
函館伝道の開拓者として日本基督教団函館教会を創立したM.C.ハリスと遺愛女子高等学校設立の主唱者ハリス夫人
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ハリスはアメリカ領事も兼ねて、北海道開拓使長官黒田清隆と親交があり、札幌にしばしば訪れた。札幌にはクラーク博士がおり、多くの青年にキリスト教的感化を与えていた。
ハリス夫妻の北海道における伝道事業は着々としてその功績をあげていく。
ハリス夫人は函館に4年位滞在。この間西洋の日常生活を伝え、婦人会を作り、自宅に子女を集め英語などを教え、伝道に努め、日本と日本語を学ぶ。また、文学に秀れ、日本の古典にも親しみ、「土佐日記」を英訳して出版している。
1878(明治11)年頃、アメリカの婦人外国伝道協会誌「ウーマンズ・フレンズ」に函館での女学校設立の必要を寄稿、これに共感をもったドイツ駐在のアメリカ公使夫人のカロライン・ライトが献金をし、この寄附を基に遺愛女学校が創設される。最初の校名はカロライン・ライト・メモリアル女学校と名付けられた。
この年、日本に同化して昼夜心血をそそいで日本人に尽くすが、病弱のためやむなく東京に転居する。
ハリスは転居後、青山学院の源流である美会神学校、耕教学舎で教鞭を執り校長となる。1886(明治19)年、アメリカヘ帰国するが、1904(明治37)年、日本・朝鮮の宣教監督として再来日する。
1909(明治42)年9月7日、病弱だったハリス夫人は、59歳にして青山学院宣教師館にて天に召された。夫人はその生涯を日本人、特に婦人の向上救いに捧げられた。
ハリスは日本の親友から招かれて隠退後も再び来日して、青山のハリス館で余生を送る。すすめる人があり、1919(大正8)年、米国にてハリス夫人の姪エリザベス・ベストと再婚し、平和な晩年を過ごしたが、1921(大正10)年5月8日、青山学院構内において昇天する。
函館に居た頃与えられた唯一の愛子フロレンスが生後10ヶ月で亡くなり、生涯を日本に捧げる決心をした夫妻は、青山墓地にハリスも夫人もフロレンスも共に眠っている。
地上の最後の時に「函館に行かねば!」と叫んだという。
ハリスは多年の功労により明治31年、勲四等瑞宝章を授けられ、明治38年、勲三等瑞宝章を賜り、大正5年、勲二等瑞宝章に叙せられた。明治40年には、夫婦同伴で明治天皇に拝謁し、夫人もまた従三位に叙せられた。
ハリスは常々私は「アメリカに生まれた日本人です」と語っていた。