函館 大経 (はこだて だいけい) 1848年~1907年
明治5、明治13年と2度の馬術天覧の栄に輝いた当時我国随一の馬術師。
弘化4年5月様似場所幌満に生まれる。幼名を義三郎といい、幌満川の渡守、斉藤源吉の2男として出生、生粋の道産子である。
幼い頃から乗馬にはたけていた。元治元年、箱館奉行支配調役水野正太夫に従い江戸に上り、後の箱館奉行栗本瀬兵衛の馬丁となり馬術に励んだ。そして幕臣小野市右衛門の養子になり、幕府の騎兵隊に入りフランス人に洋式の騎乗法を習い益々技をみがいた。
明治2年、新政府の兵部省御馬掛となり、黒田清隆に知られることになった。明治3年、横浜居留外国人の開催した根岸競馬に出場、並いる外団人を抜いて優勝した。
清隆は大いに感激し箱館奉行地の出身にちなんで函館大経と改名させた。同年、福岡藩の馬術教師となり、翌年、海軍兵学校の御馬掛となり、明治5年正月海軍兵学校に於て馬術天覧の名誉を得た。そしてこの年の8月、七重牧場に在勤し、これ以後北海道の馬種改良に努めた。
この時大経26歳であった。明治13年再び東京紅葉山に於て馬術天覧の栄に輝き、名実ともに馬術師としての名声を得た。
明治26年退官して湯ノ川村字柏野に住み、獣医、蹄鉄業を営み、湯ノ川競場の業務を行ない競馬界の発展に大いに尽した。