花光 春之助 (はなみつ はるのすけ) 1893年~1980年
函館の貴重な古美術品を蒐集し、300点におよぶコレクションを博物館に寄贈。函館の教育文化向上に尽力された、「花光コレクション」の花光春之助。
明治26年2月20日、京都府竹野郡下宇川村字中浜に惣次郎の次男として生まれる。兵庫県立柏原中学校に入学するが、2年で中退。以後、小学校の代用教員となる。
明治45年4月、来函。英人商会および運送店丸和北印に勤務する。
大正6年、北一運送合資会社を創立し、代表社員となる。13年、函館道路改善会の発起人となり、幹事長に就任。
昭和2年、渡辺合名会社書店部長、その後金森百貨店事務長・支配人を歴任。郷土文化の催し物を開催するうちに、函館や北海道の歴史に関心を抱くようになり、道南の旧家が手放す美術品が東京方面に流れてしまうのを惜しんで美術工芸品を集めるようになる。「南の長崎と同様に北の函館は、欧米文化を最も早くかつ多量に吸収しているので、これらの函館の文化財を蒐集することを志した」と後に自ら語っている。
昭和11年、(株)魁文舎(大正堂・一二堂)代表取綿役となる。
昭和13年10月、函館市議会議員に当選する。16年、函館家庭雑貨統制組合理事長に就任。
昭和21年、函館新聞社(戦前にあった函館新聞とは異なる)の監査役となり、後に取締役となる。22年、函館市議会議員に当選。翌23年、函館商工会議所議員に当選。以後、3期連続当選する。
昭和24年、函館雑貨商事(株)を創立。社長となる。夕刊はこだて社社長に就任する。
昭和27年10月、函館市教育委員となる。この年から、社会教育委員、公民館・図書館・博物館の運営委員、文化財調査委員など教育文化の公職に就任する。函館市政功労者に推挙される。28年、日本出版物販売組合全国連合会常任理事に就任。31年、(株)北海道教科書供給所取締役に就任。
昭和34年10月、紺綬褒章を受章する。
昭和41年、市立函館博物館が開館されるに際し、多くの市民に観覧されることを願って、数10年に亘り蒐集された300点におよぶ美術工芸品のコレクションを寄贈する。この中には、蠣崎波響の絵画など函館市指定有形文化財が多数含まれている。これらは現在も「花光コレクション」として市立函館博物館に所蔵されている。同年11月、函館市文化賞受賞。
昭和46年、(株)北海道教科書供給所取締役社長に就任し、後に会長となる。その他にも、赤光社顧問、田辺三重松画伯後援会長、橋本三郎画伯の後援、函館市文化団体協議会会長、三曲協会会長などを歴任する。
昭和50年11月、第11回北海道文化財保護功労表彰を受ける。
昭和55年7月26日、死去。享年88歳。
「花光コレクション」は、函館の文化財を他の地へ散逸させまいとする花光春之助の強い郷土愛によって蒐集されたものです。