疋田 豊治 (ひきた とよじ) 1882年~1974年
北海道大学水産学部で40年余り教鞭を執り、日本の魚類学の基礎を築いた魚類学者、疋田豊治。
明治15年7月3日、山形県西田川郡日枝村の疋田太郎右ヱ門の次男として生まれる。36年、山形県荘内中学校を卒業し、東京帝国大学理科大学臨時教員養成所へ入学、39年卒業。京都の中学を経て大分県佐伯中学に赴任、ここで2年間教鞭を執る。
明治42年4月、東北帝国大学農科大学水産学科に講師として着任、11月助教授となる。
大正2年、30歳の時、「動物学雑誌」第25号に論文「本邦産Argentinidaeの一新種に就いて」を発表。
大正15年5月14日、北海道帝国大学創基五十年記念祝典を挙行。この時疋田は、写真係に任命され祝典を記録する。祝典会期前は果樹園や演習林など道内関係施設を、会期中は各学部の展覧会や記念祝典の様子を撮影する。
その写真は翌年「北海道帝国大学創基五十年記念写真帖」に収録され、刊行されている。
昭和2年4月、北海道帝国大学附属水産専門部教授となる。翌5年、日本動物学会において「北海道及樺太産シシャモの形態習性及分布に就いて」と越した講演を行う。
昭和10年4月、北海道帝国大学附属水産専門部が廃止となり函館に移転され、函館高等水産学校(現・北海道大学水産学部)として開校する。同時に教授となり、函館に転居する。
昭和17年3月、定年退官、4月講師となり函館高等水産学校に残る。翌18年4月、農学部水産学科講師となり函館を去る。
疋田豊治は、定年退職するまでの8年間を函館で過ごした。
昭和28年3月、農学部水産学科が廃止となり、北海道大学を退職する。同年9月、北海道立室蘭水族館嘱託となる。31年退職し、札幌に戻り、自宅の物置を改造して研究室を作りアリューシャン周辺の底魚牒類の研究を続ける。
昭和36年、北海道文化賞を受賞。同年、大日本水産会功績者としても表彰される。
昭和45年、転倒して骨折し、以後入院生活を続け、49年10月、92歳の天寿をまっとうした。
アイヌ語でスサム(柳の葉)と呼ばれていた魚を、柳葉魚の字を当ててシシャモと呼んだ名付け親として、また北方産カレイ類の研究の第一人者としても有名な疋田は、写真撮影の腕の良さでも知られている。
北大函館キャンパスにある総合博物館分館の水産科学館には、疋田の撮影による約6900点のガラス乾板が収蔵されている。タコやマンボウなど多様な魚類の標本、漁港の風景の他にも、疋田豊治が巨大なカメに馬乗りになったユーモラスな写真もある。