平澤 屏山 (ひらさわ びょうざん) 1822年~1876年
アイヌの人々と生活を共にし、鋭い観察眼と確かな技量で質の高いアイヌ絵を生み出した幕末のアイヌ絵師・平澤屏山
文政5年8月10日、父国四郎兵衛の長男として奥州大迫(おおはざま)村(現・岩手県稗貫(ひえぬき)郡大迫町)に生まれる。名は国太郎または助作で、屏山は号。先代は、大迫村の肝煎(名主)を勤め、表口十間、人の出入りも激しく豊かな生活を送っていた。しかし、父が死亡してからは生活も極度に困窮し、絵馬を描いて生活を支えるようになる。
妹が死亡した弘化2年、弟を連れて箱館に移住し、船乗りを相手に絵馬を描いて生活をする。以後、「えんまや」と呼ばれる。
箱館では商人杉浦嘉七の知遇を得て、嘉七の請負場所である日高や十勝を訪れ、そこでの生活の中で接したアイヌの人々の風俗を描いた。アイヌの人達と起居を共にし彼らの故郷コタンを訪ね、ときには、枕辺で語る家族や同族の自慢話や悩み、喜びや悲しみ、また誇りある伝統文化について語ってくれたことがらを詳細にメモし、またアイヌの人々の漁場で働く姿を、老いてゆく顔の皺1本にいたるまで観察してスケッチした。中でも「アイヌ風俗十二ヶ月屏風」は、アイヌの人々の自然に依拠(文字も暦も使用しなかった)していた生活を、みごとに12ヵ月に配分し描きあげた屏山の代表作である。
また、安政3年蝦夷地に疱瘡が大流行し、幕府が江戸から桑田立斎を派遣して東蝦夷地のアイヌの人達に種痘したが、その様子を描いた「ゑぞ人うゑほうそう之図」は学術的にも価値の高い傑作とされている。
屏山は、らい落な性格で酒をたしなんだ。1枚の絵がなにがしかの金になると、それで飲み歩きしばしば家へ帰るのを忘れた。酔って野原に寝転がり、溝にはまっていたり、他人の家の屋根で高いびきという始末。酔って往来を歩く時はおおぜいの子供がうしろからついてきて、いろいろな悪さをするが、すこしも怒ることがなく、呵々大笑、仙人のような奇人であった。
あまり幸せだったとは言えない幼少期をおくったせいか、とりわけ子供の描写に意を注いでいる。好奇心に富んだ表情の子供たち、大事な酒をこぼしてしまって老婆に追いかけられてる少年、物音に驚いたか、とつぜん目をさましている子供、かごの上のあかん坊、寒さにかじかんだ手を一生懸命あたためている子供など、アイヌの子供たちを生き生きと描いている。
19世紀に入ると、欧米の研究者がアイヌ民族とその文化に強い関心を示すようになり、函館に来航した外国人は誰もが屏山のアイヌ絵を求めた。英国商人ブラキストンは1枚に百円もの大金を払って画を依頼したと伝えられている。実際に屏山のアイヌ絵は、本画のほか下絵や粉本までもが収集された。
明治9年8月2日、貧乏のうちに函館でその数奇な一生を閉じた。享年54歳だった。
屏山の死後は、わずかに弟子の木村巴江や岩手出身の北條玉洞が名を残すだけで、アイヌ絵は、次第に影をひそめていった。