平塚 時蔵 (ひらつか ときぞう) 1836年~1922年
世のため、他人のために粉骨砕身、函館を愛し、函館を育てたい一心が生き甲斐だった明治の豪商・平塚時蔵。
天保7年3月1日、陸奥国下北郡田名部(現・むつ市)の豪商、新谷五兵衛の二男として生まれる。時蔵は生涯に3度、姓を改める。
万延元年、母方の坪田家の婿養子になり、一子時太郎をもうけたが妻が出産後間もなく死亡したので、時太郎を坪田家の後継ぎに残して、同家を去る。その後、箱館区大町の浜野家(通称浜家と呼ばれていた)の手代として8年間働き、店主平塚八太夫にその商才を見込まれ、慶応2年9月、八太夫の妻の妹と結婚し浜家の婿養子となり、浜野時蔵と改名した。
明治12年、義父の旧姓平塚を名乗り、屋号を浜屋と称し、浜屋平塚時蔵となった。
明治8年、渡邊熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門等と協力し、道内で最初の石造、洋風の魁文舎を末広町に建て、店内に新聞閲覧所を設けた。
明治10年12月、同志等と計り、生活困窮家庭の子弟教育施設として、道内最初の私立学校を起こした。後日これが鶴岡小学校と改められた。また同志の外に伊藤鋳之助を迎えて、印刷機械を購入、北溟社を創立し、印刷業を始めた。
明治11年1月、函館新聞社を創立。道内最初の新聞発刊に参画した。また、憩いの場として函館公園の開設を計り、先頭に立って官民協力造園にあたった。翌12年11月3日、盛大な開園式を催し、官民共に完成を祝った。これが終わるや当時の区長、常野正義を助け、同志と協力義援して、豊川町に道内初の第一公立病院を創立。後に豊川病院と称された。
渡邊熊四郎、今井市右衛門、平田文右衛門、そして平塚時蔵を時の開拓使函館支庁長時任為基は、四天王と称した。そして開拓使長官黒田清隆より黄金の指環を拝受した。
明治12年12月6日、堀江町(現・末広町)からの失火は大火となり、時蔵の店舗も類焼した。自分の店舗の復興をも顧みず私財義援をきめ、15年4月、弥生小学校として、区内最大の小学校が開校された。
産業界においては、明治13年同志らと函館器械製造所設立を企画、三菱会社と共同で船舶機関その他、器械器具の製作を始める。後に函館造船所となる。
明治15年9月、公益功労者として藍綬褒章を贈られる。第1・2号は東京と大阪の人に与えられたが、第3号から第7号までの5人は函館の時蔵の同志である常野正義区長、今井市右衛門、平塚時蔵、渡邊熊四郎、平田文右衛門で、特筆に値するものであった。
晩年は会所町(現・元町)にて雑貨商を営み、大正11年2月5日、吾子、吾孫に見とられ87歳の生涯を閉じた。
北洋漁業の開拓者で函館市2番目の名誉市民、平塚常次郎の伯父にあたる。
函館四天王
明治初期から中葉にかけて函館経済界の重鎮として活躍し、産業振興、更に福祉事業や都市造りに力を尽くした函館市民精神の源流。今井市右衛門(1836~1887)、平田文右衛門(1849~1901)、渡辺熊四郎(1840~1907)、平塚時蔵(1836~1922)の4人で、元町公園にある四天王の銅像は函館青年会議所30周年記念事業として建立された。