廣井 勇 (ひろい いさみ) 1862年~1928年
函館の本格的な港づくりに関わり、北海道の築港事業を大きく前進させる契機となった廣井勇の築港学。
文久2年9月2日、土佐国高岡郡佐川村の土州藩士廣井喜十郎の長男として生まれる。父の喜十郎は土州藩の御納戸役を勤めていたが、生活はあまり楽ではなかった。
明治3年勇9歳の時父を失い11歳にして上京。叔父にあたる侍従男爵片岡利和の許に身を寄せ、明治10年札幌農学校に入学するまで片岡家より通学していた。東京外国語学校から工部大学の予科へ転学し、明治10年に札幌農学校(現・北海道大学)の官費生が募集された際、直ちに応じて入学を許可され北海道へ渡る。この時の北海道開拓使長官は黒田清隆であった。勇が入学した時には、クラーク博士はすでになくなっていたが、土木工学を学ぶ勇にとって最も好都合であった事は、教師の中に米国土木工師ウイリアム・ホイラーが居たことだった。ホイラーはクラーク博士の後を受けて教頭となり、土木工事、数学等を担任していた。
明治14年、札幌農学校の第2期生として卒業。その後アメリカ、ドイツに留学して土木工学の研鑽を積む。
明治22年9月11日札幌農学校教授に任ぜられ新設の工学科のために容易ならざる苦心努力をした。翌23年より北海道庁技師を兼務し、一時は土木課長として一般土木事業の事務監督に携ったが、24年課長の任を辞し、兼任技師として北海道港湾の基本調査に没頭する。
初めに着手したのは函館港改良工事で、明治29年6月に起工した。調査は5年間におよび、工事をする際勇は大きく4つのポイントを考えた。1つ目は大きな船が入ってこられるように海底の砂を抉って水深を深くする工事。2つ目は沖から港の中に砂が流れ込まないようにする防砂堤の工事。3つ目は弁天台場の取り壊しと、周囲を埋め立て船着き場と造船所をつくる。4つ目は防波堤の建設及び増築工事だった。
弁天台場を取り壊し、周囲を埋め立て防波堤が造られていく。この時の工事の中で最も困難だったのは、塞堤の工事だった。ほとんど水中で行わなければならなかったからである。着工から3年、防波堤は無事に完成した。
その後、小樽、室蘭、釧路など北海道の重要な港湾について近代的築港の礎を築いた。
明治中葉の築港技術揺藍期に、我が国最初の外海荒波に対する本格的防波堤を小樽港に造ることを時の政府に踏み切らせたのは、勇の抜きんでた学識と、技術者としての熱意によるところが大きかった。この小樽港北防波堤工事の成功が、続く北海道各港の築港事業を大きく前進させる契機となった。
築港学の権威者として、また教育者として多くの有為な人材を育て、港湾事業の発展に尽くした人たちを多数輩出した廣井勇は、昭和3年10月1日、東京市牛込の自宅に於いて、突如狭心症にかかり僅かに15分間の軽い苦しみの後、67歳の生涯を閉じた。