函館市文化・スポーツ振興財団

久生 十蘭 (ひさお じゅうらん)  1902年~1957年

27才にして仏蘭西の土を踏み、函館で生まれた破天荒な文士。推理、ユーモア、歴史、現代ものと多彩にペンを振るい、博識な技巧で謎多き″多面体作家″と言われた直木賞作家・久生十蘭。

久生 十蘭

明治35年4月6日、元町に生まれる。本名阿部正雄。37年、この頃より回漕業を営む祖父(伯父説もある)、阿部新之助に養育されたといわれる。

明治40年、メソジスト派教会のミッション・スクール付属遺愛幼稚園へ通う。函館区立弥生小学校を経て、北海道庁立函館中学校(現・函館中部高校)へ入学。上級生に長谷川海太郎、渡辺紳一郎、下級生に納谷三千男(水谷準)、長谷川二郎、亀井勝一郎らがいた。

大正6年、十蘭15歳の時、学内で事件を起こして、この年か翌年早々に同校を中途退学する。8年4月、東京滝野川の聖学院中学3年に編入学するが、8月に中途退学する。翌年に帰郷し、長谷川海太郎の父淑夫が経営する函館新聞社に入社、記者となる。

大正11年、函館のアマチュア演劇グループ「素劇会」が結成され、十蘭も参加。また、秋に函館毎日新聞社主催の第1回童話劇大会が開催されたとき、演出指導を一部担当する。「素劇会」に参加していた若手新聞記者を中心として、文学グループ「函館文芸生社」が結成され、十蘭も同人となる。この年の9月、関東大震災直後の東京に赴き、著名入りの報告記事「東京への突入」を「函館新聞」に書く。

昭和4年11月、岸田國士らの見送りを受けて東京駅を立ち、シベリア鉄道を利用してパリヘ向かい、12月パリに到着。以後8年の帰国まで滞仏中の詳細は不明であるが、国立工芸学校でレンズ光学を学んだといわれる。また、演出家シャルル・デュランに就いて演劇を学んだとされるが確証はなく、ただ劇場や映画館にはしばしば足を運んだことが推測される。帰国後、新築地劇団演出部に所属。築地小劇場改築竣成記念公演「ハムレット」の舞台監督を務め、まもなく劇団を離れる。この頃、「新青年」編集長水谷準と再会し、執筆を求められる。

昭和11年4月、岸田國士の推薦で明治大学文芸科講師となり演劇論を講じる。翌年の9月、久保田万太郎、岩田豊雄、岸田國士を発起人として結成された文学座に参加。12年4月に開講した文学座研究所の講師を務める。

昭和14年、「新青年」に連載中の「キャラコさん」で第1回「新青年賞」を受賞。この年の9月、「キャラコさん」が森永健次郎監督、轟夕起子主演、日活で映画化される。翌年の7月、「葡萄蔓の束」が第11回直木賞の候補作となり、その後も17年7月に「三笠の月」、18年1月「遣米日記」、7月「真福寺事件」がそれぞれ直木賞の候補となる。

昭和27年1月、「鈴木主水」で柴田錬三郎「イエスの裔」とともに、第26回直木賞を受賞する。

昭和30年5月、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙主催の第2回世界短編小説コンクールで「母子像」が第1席となり、翌年、佐伯清監督、山田五十鈴主演、東映で映画化された。

昭和32年3月食道の異常を訴え、6月食道癌の疑いで東京の癌研究所に入院。10月6日、鎌倉の自宅で食道癌のため死去した。

代表作に「だいこん」「十字街」「うすゆき抄」「肌色の月」などがある。

函館ゆかりの人物伝