松代 伊兵衛 (まつしろ いへえ) 1808年~1886年
明治維新前の箱館に於ける庶民の教育に尽力した商業史、教育史の誇り。
嘉永4年、町年寄松代伊兵衛が渋田利右衛門と謀り、鳥取藩士西川晩翠を招いて松栄講を結び、毎月1と6の日に心学道話を講じ、庶民教化を行った。
心学道話とは神・儒・仏の3教を融合し、その教旨をやさしく説いたもので、卑近な例を多く用いたので庶民に喜ばれ、聴聞するものが多かった。
安政4年には、その道場を大町沖ノ口前(旧西警前)に新設したが、晩翠は落成を見ずして死亡した。
落成した道場は奉行堀利煕によって「誠終舎」と名付けられ、本道最初の心学道場になった。
松代伊兵衛は弁天町に生まれた。資性は温厚質実で、区民からの信頼は非常に厚かった。
教育の他にも箱館奉行の意を受け蝦夷地開拓に尽くした。組合を作り大野村の開拓を始めた。
しかし参加した人々は、あまりの将来性の遠さに嫌気がさし、ついに伊兵衛1人になったが、初一念を通し、30年かけて成し遂げた。
この労により開拓使より賞金若干と、明治2年には苗字を許された。
明治19年、コレラ病が流行、患者1,022名、死亡者846名という最悪の年であった。
伊兵衛は、その防疫に挺身努力した結果、これに感染し、入院2日後に歿した。