函館市文化・スポーツ振興財団

ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフ  1865年~1941年

日本で生まれた最初のロシア人、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフ。

ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフ

慶応元年、ロシア領事館の准医師ピョートル・マトヴエ丁エフの一子として箱館にて生まれ、領事館付司祭ニコライから洗礼を受けた。日本人の乳母によって可愛さの余りさらわれそうになったことがあったという逸話が残されている。
マトヴェーエフは、幼い頃に両親を亡くし、後にロシアに戻る。
青年時代、独学で極東ロシア最初の記者となり、ウラジオストクの港湾のいくつかの工場で働きながら、数編の記事を「ウラジオストク」紙に寄稿する。やがて工場を去り、新聞の仕事に専念する。その後、ウスリイ鉄道に就職するとともに、ロシア極東地域の全紙、トムスクの複数の新聞に寄稿する。
ロシアに戻ったマトヴェーエフは、明治36年に記者として来日する。函館から長崎まで日本各地を訪問した際、東京のニコライ堂のニコライ大主教から聞いた箱館時代のエビソードをニコライ・アムールスキーの筆名でウラジオストク発行の雑誌に発表する。
マトヴェーエフが投稿した記事には、北海道写真界の功労者・田本研造に最初にカメラを提供したのは、自分の記憶違いでなければニコライ司祭であったこと、壊症(えそ)となった田本の脚の切断手術をしたのは自分の父で、田本はそのお礼として父を撮影、父のボートレートは彼が真っ先に撮った中の一枚であったこと、「函館に写真を導入した名誉はロシア人に属するのである」などといったことが書かれている。
明治38年、マトヴェーエフは立憲民主党系の「ダリョーキイ・クライ」紙を発刊し、同党の国会議員候補者になるが、数ヶ月後、官憲に逮捕され獄中生活を送ることとなる。40年、ウラジオストク市議会議員に獄中から立候補し、選出される。出獄後は「ダリョーカヤ・オクライナ」紙記者も兼ねる。
大正8年6月、家族とともに日本に亡命し、敦賀に住む。後に大阪に移り、ロシア語書籍出版所「平和」を開業する。11年、この頃から新古のロシア語書籍の販売をはじめる。
マトヴェーエフは大正時代の末から約20年間にわたりロシア語文献資料の供給者として日本におけるロシア学の普及の一役を担なった。
昭和16年2月10日、ロシア文化の普及に多くの足跡を残したマトヴェーエフはその人生を閉じ、神戸市立外国人墓地に埋葬された。

函館ゆかりの人物伝