函館市文化・スポーツ振興財団

村井末吉 (むらい すえきち)  1906年~1986年

生涯の伴侶を得、無一文から始めた運動用品店を基に2人3脚で、スポーツ普及に努めた人生。

村井末吉

明治39年2月23日、真砂町(現大手町)で父市太郎、母たのの3男として生まれる。宝小学校の高等科卒業後、若松町にあった「川口屋」に勤め学校を中心とした営業を始める。川口屋は鉄砲火薬と運動具を取り扱う店で、ここでの経験が後の「ムライ運動用品店」の開業へと発展する。
昭和5年、同じく川口屋に勤めていた宮崎ツギさんを見初め結婚、生涯の伴侶を得る。

7年、10年間勤めていた川口屋を退職。旭町に住むツギの祖母の“私の店を1間半仕切って貸すから、電話も2軒で使えばいい”の助言により独立する。2カ月後の5月10日、東京の運動具問屋の協力により「ムライ運動用品店」を開業する。開業当時は、一般の人がスポーツをする状況ではなかったが、名門オーシャンクラブの活躍により野球だけは函館でもプレーする人が多かった。しかし、野球道具のほとんどは「久慈運動具店」で買うといった具合で、末吉は自転車やリヤカーで学校廻りを続けていた。

スキーに傾ける情熱は人一倍で、「函館スキー連盟」の他にも仲間たちで「北斗クラブ」を作り、当時まだ道楽者のするスポーツとしてとらえられていたスキーを、一般の人に普及する努力を続けた。今はもうなくなった七飯町のスキー場で小・中学生を対象としたスキー学校を開設。スキーの修理なども進んで行った。

末吉自らも、ノルディック競技に精力的に参加し、強敵「大沼スキークラブ」との対抗、青森・弘前への遠征なども行い、ますますスキーに対する一般の関心を高めていった。

9年3月21日、住吉町から発生した火事はまたたく間に広がり、旭町にあった店も全焼した。中学校(現在の高等学校)用に仕入れていた柔道着も全て焼け、2人の手の平には7銭しかなかった。失意のどん底にあった2人にまたまた手を差しのべてくれたのは、ツギの祖母。旭町に家を建ててくれムライの店は再開した。しかし、あたりは一面の焼野原。家は1軒もなく、これでは商売にならないと大門へ移転した。

野球連盟の副会長をしていた昭和21年、朝野球を提案、その後たそがれ野球を行うなど野球の振興にも尽力し、昭和60年連盟40周年に功労賞を受賞した。59年には市のスポーツ功労賞、60年には、市の体育協会の功労賞、道のスキー連盟からの功労賞などを受賞する。

スキーに対する情熱と理解が深く、大正末期から昭和初期にかけて、ノルディックの選手として自ら実践者として活躍した村井末吉は、昭和61年2月16日、急性肺炎で亡くなった。享年81歳。

函館ゆかりの人物伝